日記・コラム・つぶやき

2019年6月18日 (火)

何もかも疑ってみたい歳になっている

 なにか、something happens というような年齢になってこの方、自分があからさまに見えて来る。過去のことなどは本当によくぞと通り抜けて来たと思うようなことがわんさと堆積して道端に静まっている。もう息はしていない。その当時の環境のままにとどまっている。当時の人々もそこにいる。もはや風景になっている。モノは言わない、動きもしない。そこに置き捨てられた自分もいる。経歴書や写真帳を観ているようなものである。
 今の自分はそれをみながら無関心に通り過ぎる。感激も思い出も自分とは別物である。だからこそ生きておれるのである。今の瞬間の自分は自分が感じたときに消え去ってしまう。時空のは瞬間に存在しいつも姿を変えてしまう。人の記憶や印象というものは過去のものでもはや生きていない。だから人はそれらに安心して付き合っておれるのである。よく人は言う、「あれは昔のことやった」。
 過去にいつまでも付きまとわれたり、自分から過去を追っかけていたりすると、生きることがむつかしくなる。歴史問題とはそういう性質のものである。過去を清算させてくれるのが未来というエネルギーである。「いつまでも昔のことを言うじゃない」という言葉があるではないか。
 この歳になって、過去から解放されると未来しかない。現在は束の間の腰掛であると思っている。日の出から日没とまでこれ半日なれば、日没から夜明けまでが別の半日である。半日を一日として生きれば一日は二日である。日の出から日没までは太陽の日で、日没から日の出までは月の日である。今現在の暦では一日は24時間で無差別に刻まれているが、これはおかしい。日中と夜間は全く意味が違っている。太陽を仰いでいる日中と月を眺める夜間では、宇宙からのメッセージが違っている。

映画「泣くな、赤鬼」を観る

 昨日は、また例のように、映画を観る。「泣くな、赤鬼」だった。平凡な作品だったという印象で、それほど感激で興奮することはなかった、夜になって、寝床の中ではぐんぐんと膨らんできた。赤鬼の演技、なかんずくその変化する表情が浮かんでくる。実に印象的な表業の変化であった。このれはその心を映すのに役立っていた。場面に相応しい表情が心の動きをとらえていたのだ。
 地方大会では最後まで生き残りながら最後の最後に負けて甲子園には出場できなかった場面が、2年度にわたって移されていた。まさに「泣くな」だった。この高校教師の人情が野球部員を巡って展開される作品であったが、そのストーリーのかずかずにわたってこの教師の表情が私を引き付けていた。教師の心を知ることができる作品で、夜になって私の眼に再現されたのであろう。重ねて言ううが、高校教師で野球部の監督というこの赤鬼の心に触れることができる作品であったのがその原因であったと思う。高校、大学と、教職が一生であった私には共感することが多い作品だったのである。

2019年6月16日 (日)

「家」の崩壊と「墓」の消滅

 人の墓では年代が経つと永代供養でお寺さんに預ける風習がある。そういうのは穴居即祖先と子孫との別れであるが、菩提寺の住職にお世話をお願いしてご先祖の墓を守っていただくことになる。
 これも一つの墓じまいであるが、お寺に預けるというのが仕舞うのとは違う意味を持っている。こうして子孫は絶えてゆく。お寺は新しい檀家を迎えねば経営が成り立たないであろう。子孫が墓参りをして守っている墓と寺が永代供養で預かっている檀家の先祖という違いはあってもこのご先祖はこの寺からは出ていない。それが子孫の安心感につながっている。
 自らには子がいないと、自分の死後は周りの人間に託すしかない。そういう場合に選択されているのが寺の永代供養塔に収めてもらうことである。最近はそういうサービスをする寺が増えていると聞く。〇〇家というものは消滅するのである。個人の霊となってすっぽりとその中に納まる。こういうのが今の社会の一つの流れになってきているのではないか。
 「家」の消滅を避けるためには養子縁組をしたものであるが、家族制度が消滅させられてしまった戦後のこの国では、その感覚が薄らいでいるのも当然であろう。「家を継ぐ」という意識が成り立たなくなっているのが現状であろう。個人主義への社会の移行が根付き始めている。それが家族意識の崩壊にもつながっているのである。相続税は国による個人財産の収奪である。それには国家による富の再配分という機能が期待されているという。これを占領軍の手によって行ったのが財閥解体であった。
 この迄話を拡大してしまうと面白くない。「家」の崩壊と「墓」の消滅を招いたものはないかという問いに対する答案にとどめるのがいいであろう。

2019年6月15日 (土)

恐山のイタコと人工知能

  恐山のイタコは、岸部氏の話に出て来る「赤頭巾」をかぶっているのだろうか。将来、この赤頭巾(聴き耳頭巾)は、素晴らしいAI頭巾になるという。そうなれば宇宙の秘密が言葉になって人類に届くということになる。
 岸部氏は、「人工知能が人間の左脳の機能の知的機能に加え、人間の右脳の機能の心的機能までも持つようになり、しかもその左脳の機能と右脳の機能を回路で結ぶ左右脳融合機能(私のいう,聴き耳頭巾の機能)までも持つまでに進化すれば、人工知能はいずれは人間の知能をすべての面ではるかに凌駕することになろう」と予見したうえで、「左右脳融合型人工知能は、いずれは、あの世とこの世の対話や、あの世とこの世の往来までも電子(映像)によって可能にし、人類の究極の夢をも実現してくれる」ものと期待すると述べている(226頁)。
 イタコは、心霊現象をあつかうものとして、特殊で個別的な役割を果たしているが、岸部氏の期待されている、「最先端の人工知能は、サイバー空間(あの世)や実世界(この世)に溢れている膨大な情報(ビッグデータ)を自ら吸収し、それを自ら機械学習することによって深層学習(ディ-プラーニング)し、自立的に、しかも協力に進化している」という(227頁)。
 このような説明に従って考えると、恐山のイタコと人工知能の共通点は、「心を読む」ということにあると言えるのではなかろうか。イタコは霊的現象としてそれを実現し、人工知能は、「人間の右脳の心の分野の数学的解析」(223頁)によってそれを可能にするという共通点を持っているように理解できよう。

鎌田東二・南直哉対談「恐山・死と生の場所」の生々しい話

 霊魂や霊性は「無記」だけれど死者は生きているという。恐山は慰霊するところではなくて死者と会うところである。イタコが死者と生者の仲立ちをする。南氏は永平寺で20年務めあげられた後、恐山のお寺の院代(住職)を務めていらっしゃる。異界の様な恐山は民間信仰のメッカの様な働きをしているらしい。霊媒、降霊など、寺院の信仰では否定されているといううか「無記」であろう。だが、此処にはそれを求めて人々がやって来る。ここで死者と再会し、死者と共ににぎやかに時を過ごすことを楽しみにしている。南さんに以下のような発言がある。
 「霊魂や幽霊などに関しては『無記』ということで処理すればよかったのですが、死者の実在というか死者の存在というのは『無記』では処理できないんでう。実在するんですから。・・・『死者』は、死体とも遺体とも違う。死者というのは死体ではない、遺体ではない、死ではない。しかし、死にかかわる何らかの存在が死者だとすれば、死者は具体的に一体どういうふうに存在するのか、ということを、ずっと考えていますね。」とおっしゃっている。鎌田氏は、南氏のこの発言を受けて、「ここにきて10年になりますが、その結論はどういおうものですか」と、恐山の寺の住職を務めはじめて10年になるらしい南氏の意見を求めている。
  それに対する南氏の答えは、「死者はやっぱり、リアルなものですね。生きている生身の人間が存在するその存在の仕方とは違うけれども、消えてなくなったものではなくて明らかに実在すると思いました。私の中では、『リアル』の定義は一つだけです。つまり、思いどうりになるものがヴァーチャルで、思いどうりにならないものがリアルだと思っています。スイッチが切れるのがヴァーチュアルで、きりたくても切れないものがリアルだと」〈39頁)。
 死者とはスイッチが切れないのだ。切りたくても切れない。だからリアルな存在であるという意味であるらしい。南氏は言う、「死者は・・・ある人間にとっては忘れたくても無視したくても、出て来る」〈40頁)。「死者というのは、絶対に誰かにとって『しか』存在しません。『誰かにとってのたいせつな人』という形でしか存在しない。一方、死体は数です。そして遺体は人格です。死体と遺体は、そこに人格があるかないかで区別できますが、死体と遺体が失われてから始まるのが死者なんですよ」(43頁)。「死や死者なんて話は、すぐ妄想に発展しますから、やっぱり具体的にどのように彼ら(恐山に死者と会うためにやって来る人々)には死者があるのかを観察するにはとてもいいところだと思います」〈77頁)と結んでいる。 

 

戦争の感覚

 死を覚悟して戦うしかなかった戦争の時代、あれは本当に現実であったのか、夢幻であったのか。そんなことを思うようになるほどに時が経ちすぎている。戦争のためにどれだけの人間が犠牲になったのか。どれだけの人生が奪われてしまったのか。そんなことも話に聞くだけの時代になったのか。そういう時代になったから、軽々と戦争を口にする。戦争のことはないもわかっていないのだ。だから再び戦争が起きる。
 戦死した将兵は英霊として国が靖国で祀っているが、空襲で焼き殺された国民は祀られていない。どうしてなのか。同じ戦争の犠牲者ではないか。国家は国民に謝罪する義務がある。戦争にまく込まれて死んだすべての人間に為政者は責任を負っている。それが非戦の誓いに結晶しているのではないか。それをはっきりと気付かせるのが宗教家ではないのか。実はその期待も裏切られている。職業宗教家にはその心がない。宗教戦争の歴史は残酷そのものである。人は何に頼ればいいのか。戦争はもはやできない時代であるという現実を知るのが最高の教訓であろう。

2019年6月14日 (金)

戦国の歴史に学ぶ時代である

  自分にとって恐ろしい敵をたをすために、味方にけしかけるというのはよくあるケースである。自分はリスクの実害も伴わないところに身を置いて戦いを見物するというタイプの人間がある。頭がよくまわるだけではなしに財力もあって味方に期待されている人物が、戦いを連続的に引き起こすことに異常な好奇心と期待を持っていることがある。こういう手合いはなんでも利用できるものを利用し、利用してしまうと捨てっ去るのである。戦国時代はそのようにして勢力図を形成してきた。
 今現在の世界はまさにそのような姿になっている。狡猾な実力者が思うままに振る舞いだすと世の乱れは最高に達する。人と人とを引き裂いたり、思わぬ相手にけしかけて戦わせたり、自分の利益を最大にするためには何でもする。自分にとっての利益以外何も求めないし、そのためには何でもする。人倫も道徳も意中にも眼中にもない。戦国の歴史がそれを教えている。

 今現在、ホルムズ海峡で起きていることの真相は何か。敵味方入り乱れれのヴァーチャル戦争が展開されているように見える。見方によればすでにリアルな戦争であるが、こういうことの積み重なっている地域が中東である。日本と日本人にとっては未経験のことが数々起きている。ゲリラぽいのだ。日本の国内でこれが起きればどうするか。諜報戦争にどのように備えているのか。こういう情報はいつの世でも庶民には内緒であろう。

2019年6月12日 (水)

「一日一生」が日ごろの感覚になる年齢

 この歳になると、これでもう終わるのではないか、今日、明日ではないにしても、死が身に迫っているような思いをする時がある。一寸先は暗闇の様な感覚が生き生きと迫って来る時がある。そういう時には、この一日が一生なのだという受け止めを心がする。それに何の疑いもない。こういう、一日一生は、頭で考えたものではない。直観的に身に迫ってきたものである。
 左脳で理性的に解明した「一日一生」ではなくて、右脳で直観的に捉えた「一日一生」観が身に感じられるのは自分の身体がそれにふさわしいような状態になってきているからであろう。このように思うと、物事は考えるよりも先に感じることが先であるということに気付くというか、気づかされることによって身に迫って来るというのが正しい理解のように思われる。
 左右脳融合型の脳機能の働きが身に備わっている日本人の場合には、右脳で受け止めたことが即、左脳の働きによって理性的に受け止められるという、岸部氏の説明が、「一日一生」の受け止めかたにも妥当するように思われた、身に即して感じられる「一日一生」があってこそ、ほんものの「一日一生」の理解が頭で成り立つのだとわかった。右脳による感性的な受容がなくて、教えられるままに左脳で理解しただけでは、それは知識であって自分の存在そのものがかかった全身体的な心の通った理解ではない。「一日一生」が日ごろの感覚になる年齢というものがあるとわかった。

岸部卓郎氏の「聴き耳頭巾」とは

 同書の「日本人は、人間と自然(宇宙)との対話に貢献できる」(202頁以下)に、「日本昔話」の「聴き耳頭巾」の話が紹介されている。「足の悪い子狐が懸命に木の実を取ろうと飛び画がっているのを見てかわいそうに思い、その実を取ってやった」爺さんが、その母狐からお礼にもらった「赤頭巾」を被ったところ、周りの草木のざわめきや鳥の鳴き声など、「自然の音」がすべて「人の話し声」に聞こえて来る「聴き耳頭巾」だあったという。
 岸部氏のAI構想はこの「赤頭巾」にヒントを得ている。宇宙の音を人の話し声に変換できれば最高であろう。これを実現できるのが、左右脳融合型の日本人の脳だという。この話から、恐山の「死者との対話」を思い出した。なるほどそういうことかという思いがして楽しくなった。右脳の一次聴領(下位スイッチ機構)でキャッチされた音形レベルの選別が、上位スイッチ機構を通して意味のレベルの選別に左右脳間の脳梁を介して言語に変換されることで、本来の言語である言葉の聞き取りと合わせて、言語感覚が左脳で形成されるという〈191頁、図3-7左右脳融合型の日本人の脳、参照)。

2019年6月11日 (火)

岸部卓郎氏の説く「量子論と仏教の一致」とは

 同書の215頁に量子(神の心)と無量寿光(仏の心)の合一性を示した「図3-9」が掲げられている。四次元の世界(あの世)では、佛の無量光と量子の波動性は一致し、三次元の世界(この世)では、佛の無量寿(仏の心)と量子の粒子性(神の心)は一致する。それを次のように説明している。
「仏教に言う無限の時間の流れの無量寿が、量子論に言う電子の粒子性にあたり、(なぜなら、電子の粒子は速度を持っていて無限の時間を流れるから)、仏教に言う無限の空間の広がりの無量光が、量子論に言う電子の波動性にあたる(なぜなら、電子は波動となって無限の空間に広がるから)」(213~214頁)。これを要するに、東洋の右脳型の神秘思想(仏教)=西洋の左脳型の量子論(量子論的唯我論)という関係が成立し、両者は互いに融合できることが確認される。ということは、「心の世界は、左右脳の回路を通じて、科学的に解明できる」。さらに言えば、「心の世界は左右脳融合型の人工知能の開発によっても解明できる」と説明している〈216頁)。
 このような発想乃至解釈は、岸部氏の独創乃至独断ではないことを示すかのように、シュレジンガーの言葉「西洋科学は東洋思想の輸血を必要としている」を引用し、「左脳型の西洋科学(なかんずく量子論)の発展のためには、左右脳の回路を介して、右脳型の東洋思想(なかんずく東洋神秘思想)の導入が不可欠である」と説明し、更に、ハイゼンベルクもまた、「過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学の発展に対して大きな貢献をしてきたのは、東洋の哲学的伝統(仏教思想やタオイズムなど:著者注)と量子力学(量子論的唯我論:著者注)が根本的に似ているからなのかもしれない」といっている(ウイリアム・H・クロッパー著、水谷淳訳『物理学天才列伝 下』講談社ブルーバックス参照)」と紹介されている。

 このような紹介のあとで、「左右脳融合型脳による対話(「あの世」と「この世」の対話)」(221頁以下)の中で、岸根氏は次のように述べている。「電子の対話方程式としての電子の波動関数を用いれば、電子の心を持ったあの世の神と、同じく電子の心を持ったこの世の人間との干渉現象としての電子の対話現象をも解明できる」と考える。具体的には、そのような、「電子の対話現象を、人間の右脳で思弁化すれば、それが宗教から見た神(あの世)と人間(この世)との対話になるし、人間の左脳で理論化すれば、それが科学から見た神(あの世)と人間(この世)との対話になる」と考えると述べている。更に、このことを「人間の脳」の「左右脳の回路」との関連でも言えば、私(岸部)は、そのような「電子対話現象を、人間の右脳で直観し、それを左右脳の回路を介して、左に持ってきて言語化すれば、それがあの世の神とこの世の人間との対話になる」と考えると述べている〈222頁〉。そこで岸部氏が期待しているのは、そのような能力が期待される「人間の左右脳融合型知能を持った人工知能(聴き耳頭巾)さえ開発できれば、人間はその人工知能を用いて、これまでは夢ともされてきた、この世とあの世の対話をも可能にすることができる」ということであると、将来の人工知能に対する期待を表明している。

 

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