日記・コラム・つぶやき

2019年3月18日 (月)

映画「グリーン・ブック」を観た感想

 今日は、映画「グリーン・ブック」を観た。眠気は襲ってこなかった。初めから引き付けられたようであって。会場は中高年の観客で埋まっていた。アメリカ南部での黒人差別の徹底した凄さを紹介するような画面が多くあった。白人がこの黒人歌手のドライバーを務めて道中でいろいろな差別を経験する。

 なんだか、この映画に突然、トランプ氏が飛び出してきてもさまになるような気がした。オバマ氏のこともちっらっと話になっていたが、彼を呼んできてもいいような場面が多くたった。アメリカでは黒人差別が社会の中にしみこんでいる様子をまざまざと見せつけるような映画であった。

 ニュージランドのモスクで信者が銃撃されたニュースが今日出ていた。白人至上主義に感染した白人青年の犯行であって。kkkはアメリカでは顰蹙されているが、隠然たる勢力を持っている。トランプ氏がkkkを擁護するような発言をして物議をかもしたのも最近のことである。

 人種差別は古くて新しい問題であるといまさらのように思う。ヒットラーのユダヤ人虐殺はその典型的な事件であった。どうして人間同士がこのような争いから抜け出せないのか。

2019年3月17日 (日)

介護しながらの日々を過ごす

 今朝は曇天で寒い。3月丁度半ばの日曜日、9時50プう頃に起床する。真夜中は1時間半に一回くらいの割合で家内を車椅子で便所に運び、終るまで待ってベッドに連れて帰るという労働がある。これでこちらの体がくたくたになる。夜中の睡眠の質が良くない。

 その日その日で何事も状況が違う。転機と全く同じである。天気予報のようにあらかじめわかるといいのだが解かるようでわからない。気象が大きく影響していることは確かである。寒暖の差、湿度の違い、風の具合、日照りの変化など、微妙に影響している。改めとそれを確認した。病院などは具合の悪いところだということがわかる。自宅が良好な環境である。そのためには、余計な家族はいない方がいい。今は家内と私だけの二人が住んでいるので都合がいい。邪魔者はいない。24時間緊急連絡先の電話番号を契約して戴いている。訪問看護師がまさかの時に来宅してくれる。すでに一回あった。呼吸不全が悩みである。

 起坐呼吸が一夜に何回か襲ってくる。そのたびに水を飲むのだが、飲みすぎて水が体内にたまるのでよくない。心不全賀襲ってくるリスクが高いと言われている。水を下ろすための薬を処方されている。BNPの値が高くならないようにせねばならない。二か月に一回外来診察の予約をしている。調子が悪いと月に一回の診察になる。今のところ隔月の診察で済んでいる。診察の一時間前から、採血、胸部レントゲン、心電図の撮影がある。その結果を医師が見て診断し患者に報告する。その時の患者と医師の会話でその後の処置が決まる。認知症をMRIで確認してから5年半ばである。精神神経科の医師が退職してからちょうど1年になるが、その間、その診察は受けていないし投薬もないので病状は自然に進行しているようである。この種の投薬はない方がいい。医師もその判断に傾いていた。

2019年3月14日 (木)

映画「運び屋」「マラソン」「家族のレシピ」を見比べて楽しむ

 映画「運び屋」は、90歳の老人が経営してぃた農園らしきものを税金不払いで差し押さえられたというシイーンから見た。それがきっかけで、麻薬の運び屋になった男の生きざまが痛快であった。体力、気力、機智が優れていて見事に成功する.その大金を寄付したり淡々と暮らしている様子が安心感を与えて呉れる。この人物でなければできないような見事な演技が観客を引きつけていた。老後の生き方には社会に対する無言の抵抗が秘められているようであった。同じ年齢である私も、この秘められた抗議には痛快であった。人生を思うように生き家族には認めてもらえなかった一人の男が、その人生の最後に、違法と承知しながら麻薬の運び屋になって大金をつかんだのが皮肉なようであったが、最後に、ワイフのがんの病床に現れて家族との和解を果たして、警察に逮捕されたシーンはすがすがしさのような感じすら与えて呉れた。覚悟の人生が見事であった。文芸作品の域に達していた。

 この映画の先に見た「マラソン」は、深みがない。東京マラソン協賛映画のような宣伝臭まで感じられた。行きはマラソン帰りは戦争というのも消化不良な展開であった。老いも若きもマラソンという光景すら無理強いのような展開であった。娯楽映画はこの程度のものかという印象だった。心理的は深みのない映画だった。

 映画「家族のレシピ」は、今どきの日本の青年が何に悩み、どのように生きようかという生活の選択をストーリーにしたもので、アジアでの日本軍の行状を暴く老婆の姿が印象的であった。一人の青年がシンガポールを舞台に人間的に成長する姿がよかった。この映画はそれなりの教訓を今の日本人に伝えてもいた。アジアでは信用されないどころか憎悪すらもたれている日本人という現実が、今の日本人ののど元に突き刺さったとげであることを教えてもいた。国際親善のなかで生まれる家族の連帯感が救いのような映画であった。

2019年3月10日 (日)

言葉の選択と教養

 書き言葉、話し言葉の違いははっきりしている。話し言葉はローカル色がはっきりと出る。それだけにその地方の人には親しみやすい。書き言葉は標準語が主体でつくられた言葉である。学校でも勉強はこの書き言葉でするから襟を正したような姿勢になる。

 書き言葉は国民の言葉を全国一律に統一する政府の意図が働いている。標準語のお手本になった言葉が時の政府の力を反映している。この国の政府は明治以来、東京にあるから、東京で考え出された言葉であるかもしれない。どの地方の方言に近寄ってもいけない。多分そうした配慮のもとで作り出されたのであると思う。

 標準語を読み書きに使えないのは恥とされていた。小学校の低学年でそれをしっかりと教え込まれたものである。それが外向きの時間であった。時間外には友達と地元の言葉でしゃべっていた。それが内向きの時間で心安くリラックスしていたことを覚えている。

 我々の内と外の使い分けは、こうした言葉の使い方から始まって、すべての生活分野に及んでいた。江戸時代と明治維新、和風と洋風、和式と洋式、日本料理と洋風料理、和文・漢文と洋学、漢方医学と西洋医学など、我々の生活は和・漢・洋を裁然と区別しながら地層のように堆積してきたのである。

 戦前・戦中には漢字が氾濫していたが、戦後は片仮名が多用されてきた。外国語を一度は日本語に翻訳して片仮名を振ったが、いつの今にか片仮名が独立して、役所の文書にも使われるようになった。そして今は、英語がそのまま通用している。英語や他の外国語のそのままの表記が多く使われるようになっている。

 言葉からくる感覚を、我々はどのように受け止めているのであろうか。和・漢・洋、それぞれの言葉から出るニュアンス(響き)は違っている。英語がわかるかわからないか、使えるか使えないかで、教養の違いを見分ける時代もあった。今は、わかって当たり前、使えて当然の世の中に変わろうとしている。その助けをしているのが片仮名である。

完全自由競争でこの国を再生する時である

  大学が受験性を選択しているのか。受験生が大学を選択しているのか。

 入学試験によって受験性を選択するのが入試であるが、その前に、

 受験生が出願するか否かによって大学を選択している。更に、受験生は

 合格しても入学しないという選択もする。大学と受験性の間には夫々

 選択権が働いている。これが受験市場での取引の実態である。大学が

 受験生を評価すると同時に受験生が大学を評価しているのが大学受験

 である。物品やサービスを提供する市場で売手と買手の双方がお互に

相手を選択しているのと同様である。

 市場関係者である大学と受験性のどちらかが一方的に相手を選択

するのではない。それを誤って、大学が入学を許可してやるという

一方的な権力の行使と幻想しているのが大学関係者であるかもしれな

い。彼らは市場取引という観念に薄いからである。これは企業が

市場取引を企業による一方的な相手の選択と誤解するのと同じこと

である。これを実行する可能性のあるのが独占企業である。だから

自由市場経済ではこれを排除するために独占禁止法が適用されている。

大学受験でそのようなことがあるだろうか。これに相当するのは

受験資格制限である。これを取っ払って誰でもが受験できる資格

無制限の入学試験制度を採用すれば、受験市場での自由競争が成り立つ。

それを実行している国もある。だから12歳でも大学生が生まれたり

するのがアメリカである。日本もこの方向に動かねばならないと思う。

自由主義経済とは本来そういうものである。その根底は能力主義である。

是と全く反対なのは、能力の疑わしいものを金銭等の寄付で入学させ

ている「医学部」である。企業取引では欠陥商品の納入がそれにあたる

であろう。規格を守らない、検査を誤魔化すなどの不正がこの国では

横行している。これなどは自由主義経済の破壊行為である。この国

では、入試でも商品・サービスの取引でも自由市場経済の不正な破壊

が横行している。

 これらのことは、一方的行為による競争経済の破壊であって、

自由主義経済を標榜する国家のするべきことではない。公正取引の

形骸化はこの国の発展を阻害する。さしずめ入試では年齢制限の廃止、

資格制限の撤廃が求められる。能力本位主義に徹して自由競争を貫徹

すべきである。それが「世界で競争に勝てる人材」の養成に貢献する。

企業も姑息な取引と決別すべきは勿論、技術力で世界と覇を競う本来

の姿に戻るべきである。

 「医学部」は閉鎖社会を志向している。業界だけの内輪の論理が

横行している結果を出した。「独占企業」の不正はサラリーマン重役

や幹部が自己保身にのみ集中している結果が部下たちから出たので

ある。平和と安定にどっぷりと浸かってきたからこういう結果になった。

人材は育たない、企業行動は破壊されている、そういう現状ではないか。

これが平成30年の決算である。CPAに社会監査を義務付けてもらいたい。

 

 

 

 

 

2019年3月 8日 (金)

新しい日本の国家観を形成するとすればどのようなものであろうか

 この国のこれからを考える機会がやってきた。今年の5月に新しい天皇が即位されるように、この国には一つの転機が訪れている。世界の政治経済の情勢のなかでもこの国の生き残りをかけた変化が起こりつつある。

 21世紀は科学革命の時代と言われるであろうような科学の進歩が世界的に進行している。これまでとは人間の生き方がすっかり変わるような科学の進歩が世界に浸透しつつある。AI やIoTに代表されるようなデジタル社会が人間の生存基盤になりつつある。

 こうした変化に勝ちぬくだけの力が備わっていないと衰退するしかない。それを防ぐためには人、モノ、カネ、情報と言った資源が豊富でなければならないが、この国は人の面で、すでに人口減少社会に転じている。物やカネの面ではアメリカが仕掛けた貿易戦争に巻き込まれているので困難が将来に予想される。情報の面では軍事力を欠くことが大きな障壁になっている。

 第二次世界戦争の傷跡を修復する時代がすでに終わって新しい戦争の時代にすでに移行している。世界が新しい次元を求めて移行しつつある。その勝者はまだ決まっていない。これは宇宙戦争を含めて動き出している。このような21世紀の戦いの主役たちにどの国が登場するのかはまだはっきりしないが中国が含まれることは確かである。

 さて、このような情勢の中で日本はどのようなポジションをとるのだろうか。国連常任理事国ではない、先の戦争の敵国としていまだに位置付けられている現状では、世界をリードする国のランクには入れない。非常任理事国に顔を出すことのある程度の国である。

 日本が世界の中で生き抜くためには、平和国家としての信用を世界から得なければならない。それが先の戦争の敗者に課せられている責任である。そのことを実績で示さねばならない。それが経済的な貢献である。そのうえで、人道的な貢献を果たさねばならない。これからもこの状態が続くであろう。その中で日本が実現できるのは、世界政治のなかでの中位的な勢力の確保、世界経済のなかでの中産国家としての実力、世界の道徳のなかで中庸を体現することであろう。

 21世紀が動き出している。その中でこれからのこの国の進路を国民が自らの目標として選択すべき局面にある。

2019年3月 7日 (木)

日本列島に相応しい生き方を選択してもらいたい

自分のこの世での一生もそろそろ幕になりそうな年齢になったので、これまでの一生を振り返ってみる気持ちが起きた。日本の昭和世代という一種異様な時代に生きたために、戦争が人生を創ってきたのである。戦後は七十数年経っているので戦争のことは風化しているが、それに代わって震災が生き生きと登場してきている。これは一層厄介である。

 大きな地震や津波が発生する可能性は非常に高いと予想されている。どこまで予測できているのかは確かでないが、発生の確率がかなり高いようである。今この瞬間から何が起きても不思議ではないらしい。天災には勝てないのだからとにかく身を守る術を発見するしかない。15.5メートルの高さまで真っ黒い津波が押し寄せてきて人々を攫って帰った、あの東北の3・11のことが今も恐怖を掻き立てる。津波に流されて海にゆく被災の光景をテレビで見た。

 日本列島は北から南まで、地震が連続して発生している。不安に思って当然である。それなのに原発が依然として稼働している。放射能汚染がひどかった地域はいまも汚染が続いている。放射性廃棄物の処理がはかどらない。最終処分地はまだ決まっていないようである。「それでも原発」を政府は推進している。脱原発に政治の舵を切ることがなぜできないのか。

 「日本列島に相応しい生き方」を選択してもらいたい。そいう研究に日本のエリートたちが結集してもらいたい。

 イギリスは、イギリスに相応しい生き方を「EU 離脱」に賭けている。アメリカは、アメリカに相応しい生き方を「アメリカ第一」に置いている。いずれもこれまでに築いてきた世界を覆すような選択である。日本は、日本に相応しい生き方を何に求めるのか。世界が既存の路線から大きく外れようとしている現在、日本は、これまでのように、「欧米に見習う」では済まされない。見習うべき模範が亡くなろうとしているのであるから、自ら自分の生き方を創造せねばならない。

 その選択に当たって、この国土の自然を改めて再認識することは不可欠である。社会的には少子化のトレンドがこのままさらに進行することも織り込まねばならない。これらは既に常識である。それを超えて、新しい国家の創造を目標にせねばならない。

雲の動きに誘われて自分を知る

 大気の流れを示す雲の動きをみていると、これが人生なのだ、世の中なのだ、自然とはこのように形のないモノだという実感がわく。雲は一瞬たりとも同じではない。瞬きしているうちに形が変わっている。

 雲は、すべてを私たちに教えてくれる。空を観るのが大好きである。心がすっきりする。時々刻々の雲の変わりようは人の世のはかなさを教えてくれるようである。大気の「気」が私たち人間の心の「気」を生み出しているように思われる。自然の気と自分の気が、気の本体と影のような関係にあると思わせられる。大気を吸い込むときにはそのようなさわやかさがある。息を吐くときにはやれやれと安どするのもその裏返しであろう。

 気象、気候、気運、気概、これらは同じ「気」の表れであるように感じる。自然と人間、いや、生物すべてはこの「気」によって同化している。そのように思うと、「気「」を正しくしたいと思うようになる。

 自然と人間を別物のように分けて認識するのは誤りであると気付くのもこの雲の姿からである。改めて大空を見つめ直す。人間である自分もこの自然の一部なのだという思いが湧いて来る。死ねば大空に還りたいという願望が自然と起きる。大空を見て解放された気分になるのは、その瞬間、自分の心が大空に還っているからであろう。

2019年3月 6日 (水)

平凡であることが生涯の幸福につながる社会保障

 いつの間にか3月になっている。ほかのことで忙殺されていたからこちらには訪ねてこれなかったのである。日時というものは淡々として刻を刻む。こちらは人間らしくあれこれとさまよう。淡々として単純な日を過ごすのが大方の老人であろう。職場でもそういうタイプのものがあるが、人によってはこの二つが単純につながっているという生き方もある。

 単純であること、平凡であることに、慣れているとそれなりに満足であろう。勤め人の一生はそういうものであることが多い。平凡であることが生涯の幸福を生んでいる。このような生き方が死ぬまで続くためにはそれなりの所得がなければならない。その財源が年金であろう。年金制度が高齢化社会を保証してる。それに医療保険が加わって、老後が守られている。

 こうした制度は人生の安全保障に不可欠である。これをどのように維持し発展できるかがその社会の健全性のメルクマールになる。政治は最低でもこのような社会保障を健全なレベルで守らねばならない。このようなことは、もはや常識になっていることなのだろうが、それを破壊することを考えたりする人たちもいるようなので、改めて意識する必要がある。

 

2019年2月27日 (水)

ビジュアルな即物的宗派とストイックな教義派との違い

 此の世のことをあの世まで持ち越すような死に方はしたくないと思ている人は死後、成仏できる。そうでない死者は、霊界には逝けないで幽界をさまようという話がある。こういう話に老人は耳を傾ける人が多い。これからの自分の行き先の話だと思うからである。でも、誰も、あの世も霊界も幽界も見たことはない。仏教の教えてして伝わっている程度であろう。

 仏教には、大きく分けて、佛がすべてと言う念仏宗と、お題目を唱える教義派とがある。仏像をあがめるのはお寺である。教えが仏像のかたちを借りて示されている。その意味で非常にビジュアルである。お題目を唱える宗派では偶像崇拝を拒否し仏像をあがめない。この周波ではイメージを排除している。

 仏教が芸術の世界と親近感を持つのは仏像を通してであろう。仏像や寺院建築は宗教芸術である。寺院の庭園はまさに心が憩うように造形されている。平等院の庭園は極楽浄土を模していると言われてもいるように、それぞれの人の庭園は仏教の教えを造形化したものである。そこに、自然との調和というこの国特有の仏教の教えが具象化されているのである。

 この宗派の仏教は、八百万の神を受け入れる自然派的な神道と仲良しである。路傍に立つ地蔵尊がその仲介役をしている。鎮守の森の氏神を先祖の霊がお守りしているという受け止め方が子孫に伝わっている。

 お題目を教義とする宗派ではそのような汎神論的な信仰の習慣を受け容れない。むしろ、それとは逆に、一神教的な宗教感覚が植え付けられている。その意味では基督教に近い。

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