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2019年12月 1日 (日)

生きているとはどういうことか

   恐山では、イタコが死者を呼び出して会話する。AIの研究者がこれをAIにやらせる時代が来ることに期待を寄せている。あの世とこの世が会話でつながるのである。イタコであれば疑心暗鬼な人でもAIであれば信用するのであろうか。我々は、日常的に死者と出遭っている。それが死者との思い出である。それ以外では、想像や想念によって異界の生命とつながる。
 神仏の信仰はこのタイプである。生者である人間の一方的な想いが神や佛の存在を認めるに過ぎないのであるが、少なくとも常識的にはそうなのであるが、神や佛の存在感を肌身に感じるともよく言われている。人間の感性がその思いを運んでくるのである。伊勢神宮に参拝して、「何事のおわしますかは知らねども・・・・」と詠んだ詩人もいる。参拝して、神々しさに心が打たれたのである。神代の世界が目の前にあるという感覚に体がすっぽり包まれたと言っていい感じだったのであろうと思う。
 つい先日に行われた大嘗祭で天皇が天照大神と食事を共にされたということを理解できるのは、神の存在を心に受け止めておられるからであろう。我々が神社に参拝して拝礼するのも、どうようの心が働いているからであろう。死者のために仏事をするのも同様の心理に根差しているのであろう。こうしたことを原点として神仏と人間の共存が確認されている。それは科学的な証明などといったものとは別の次元のことである。
 心霊現象の次元に神仏が存在している。そのように思うことでいいのだろうか。心の迷いだという人もいるかもしれない。このような受け止め方、あるいは発想は、人間中心の発想である。そういう人には神仏は無縁である。それはそれでいいのであって、それで生きてゆくことになる。
だが、神仏を信じる人は、神仏が人間を超えた絶対的な存在であることを認めている。人間中心の発想ではなくて、人間を超越したものに畏敬の念をもって生きているのである。神事・仏事はその思いを形に表したものである。
 その思いの中で、人は異界との交わりを保つのである。神霊の世界、御仏の曼荼羅の世界が人間を包み込むように存在しているという観念を人は抱くようになる。それが信仰の始まりである。自分を超越する何者かによって自分が導かれているという確信が、事実として現れるのも、この心の次元からである。この境地に淘汰することはむつかしいものではない。それは「無」の世界に身を置くことであると教えているのが「般若心経」であろう。
 

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