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2019年12月 7日 (土)

天に助けを求める

   これで終わりと思うな。人生長生きは牛のよだれのようにいつまでも続く眺めである。人から見てどうであろうと、息長く生きているのが楽しみ。無病息災は自分の生きざまで決まる。病気を寄せ付けない生き方は、単純な毎日を繰り返しながら、喜びをいつも発見することで、でかい夢は自分のマグマが心を動かすまで貯めておくことである。どんな非難も排斥も意に介しないで素通りさせる。自分の一人歩きに確かな想いを抱き続ける。人との競争ではない、自分との競争である。
 自分の育った環境が自分を創った。自分はその環境からたくさんのことを学ばされるように生きてきたのである。自分が進むと、どういうわけか知らないが、いつも激しい敵対が現れて来て、自分の足を引っ張たり、立ちはだかったり、非難を浴びせたり、軽蔑したり、無視したり、ありとあらるる不思議なことが起きた。それをすべて天の仕業と受け止めた。相手が悪いのではない、相手は天の化身のようだと思ってきたので、相手に腹も立たなかったし、相手にすることもなかった。すべてが無視であった、本当の相手は天にいたからである。人間業ではないことが起きていたのである。
 それで、ただ一本の自分の道を歩き続けて来た。黙々と自分のすることをやってきた。それができる身体を授かっていたのである。それが降伏のもとで、何事にも落胆はしなかった。出来たことはできたこと、どうしようもない、自分が選んだことではない。相手から仕掛けられたことであると思た。自分が仕掛けたことは沢山あったがいずれも相手の思うようにかたずけられている。祖の相手こそ天であった。いつも人間は見ないんで天を見詰めた。其処からすべてのことわり(理)が降りて来たからである。それを感じることで、悟ることで、生きる道を発見するたびがこの人生であった。いまもなお続いている。だから一人でいても寂しくはない。にぎやかな時すらある。神々の中に舞い込んだのであろうと思う。この世の人は、私がそう出るように、迷いの中で生きている。でも人間中心にしか考えられないと、それすらわからない。そういう人とは、言葉で何を言っても解かり合えない。人の中にいるのはしたがって絶望の海にいるようなものである。このままではおぼれてしまうと天に助けを求める。

 

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