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2019年12月 7日 (土)

神仏習合に観る日本人の精神

 人の世の終りを知るこの年頃になると、これかや行く先について想いを致すのも当然のことであろう。仏教はそういう世界観を教えたように思う。現世ご利益を説いたものではないと思うのだが、人は仏教に縋って現世ご利益を得たいと思う。これも当然の願いだろう。だが本来のお釈迦の教えと葉次元が違っているようである。現世ご利益を経が右飛とh、印度ではヒンズー教に移ったと言われている。そしてインドでは仏教はすたれてしまった。そのように聞いている。
 仏教は北稜のの山を越えて中国に入りそこで先祖崇拝の教えてして定着したと言われるが、共産主義革命政府が中国を支配している現在では無視されてしまっているらしい。この教えは中国・朝鮮から日本に入って、聖武天皇・光明皇后の時代に全国に広められたという。その証の一つが全国にある国分寺であるともいわれている。京都は皇室とも結びついて日本の宗教のメッカとなった。その前、飛鳥時代には奈良が仏教の中心地であったことを示す寺院が残っている。奈良の大仏さん(東大寺)が有名である。
 その仏教を、廃仏毀釈で破壊したのが明治政府である。それは昭和の終戦まで変わることはなかった。仏の教えを捨てて皇国神道で国民の思想を統一した。その結果が敗戦だった。戦後、進駐軍司令部(GHQ)の指令で、信教の自由の名の下で仏教は復活したのである。中国から移入された先祖崇拝の仏教は葬式仏教として受け継がれている。インドにも中国にも仏教は実質的に存在しないで、日本のみに形式的に受け継がれているんが仏教の現状ではないだろうか。インドはヒンズー教、中国は共産主義と、ともに現世思考で、「あの世」などは人々の意識にも上らないのではないか。釈迦の仏教である人間個人の精神の鍛練でもその教えの筋からして、あの世は出てこないのではないか。あの世信仰は今や日本人独特のものなのであろうか。実は、その根底は、八百万の神を信奉する自然神道にあると思われる。この国では、先祖の霊だけではなしに、すべての生物の霊が祭られている。この自然に存在するありとあらゆるものが霊性を持っていると信じられているのである。石や岩のも樹にもしめ縄を巻いて拝んでいる。人形供養、針供養、箸供養など、自分たちがお世話になった道具類を廃棄する時には供養する。これらに霊性を感じていることに他ならない。
 日本人のこのような生活習慣は、神仏習合の姿勢から生まれているのである。神が仏を抱くという思想があるように思う。佛は神をあがめると信じられている。神は土着であり佛は外来である。この国の自然そのものが神なのである。この国の人々が世界と向き合う姿勢の根源にはこのような神仏習合の心構え(精神的風土)があることをこの際、確認したいと思う。

 神道と仏教を巡っては、両者の争いや双方からの歩み寄りなど、それぞれの時代背景の中でいろいろなことが発生していたが、所詮は神祇、仏教、朝廷の三つ巴の利害闘争であった。理屈はなんとでもつけられたのである。要は利害調停にすぎなかった。本稿ではそうした歴史的事実を敢えて顧みないで、庶民の素朴な信仰心を日常行事の中に求めている。

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