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2019年11月27日 (水)

いのちに触れる

   認知症、心不全、歩行困難、足腰の痛みを訴える家内を車椅子に乗せてトイレに連れてゆくのが毎夜の日課である。一晩、4,5回であるから、こちらは眠れない夜になる。これを続けるとこちらが駄目になると言われているが、どうしようもない。施設などに入ってもらってもそこにこちらが通わなくてはならないとなると、更にしんどい。その方が疲れることは明らかである。まだ、家におるほうがいいという判断を続けている。
 さてそんな環境に生きているのだが、今のところ何とか健康なようである。生きるってどんなこと? 自然とそういうことを自問する。人生の意義なんてことまで考える。いのちとは、という問題を設定して久しいが、答えはなかなか出てこない。人間とは、という問いにすり替わってしまう。
 人間の生きる環境も、これまでとはすっかり変わって、量子の世界を前提にした話が沢山出てきている。宗教で教わったことと、科学が解明にしていることとが、お互いに繋がってしまうような議論が多く出ている。科学を支える唯物思考と宗教の背後にある観念的宇宙観とが、唯心論によって統合されるという話もある。宇宙の生命体としての人間の科学的根拠の解明という研究努力が多々出ているようである。最近は、量子コンピューターがこうしたことの研究に飛躍的な発展をもたらすのではないかという話も出ている。未知への挑戦の手掛かりがこのコンピューターによって飛躍的に発展するという期待が寄せられている。
 死出の旅に出るのが相応しい年齢であるが、こういう話を耳にし目にすると、とても死出の旅には出られない。何とか長く生き残って、事の次第を確かめたい欲望が湧いて来る。何としても勉強したいという意欲に駆られるのである。そして、これが、「いのち」だと思う。いのちとは、そういう働きをするものだと実感する。いのちの正体は解からなくてもいのちの働きは実感する。知的躍動感を湧き立てるのが、いのちの働きであると納得する。

 

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