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2019年1月10日 (木)

篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」(幻冬舎)を読む (1)

 人生の最後を誤ってはいけない。そういう思いで生きている。終末は美しくなければいけない。それが達成されるように生きることがこれからのほぼ10年程が予想される私の人生の生きかたでありたい。
 篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」(幻冬舎)をたどりながら、自分なりの読み方を書き留めた。

 「生まれて死ぬことは、考えても始まらない」(12頁)は、死に追いやられないで生きて来れたからでしょうと思った。
 「自らに由れば、人生は最後まで自分のものにできる」(16頁)は、自信があるからでしょうと受け止めた。
 「自分の足で立っている人は、過度な依存はしない」(19頁)は、それができるのですから幸せです。
 「自分という存在は、どこまでも天地にただ1人」(20頁)は、すごい発想だと受け止めた。
 「日々、違う。生きていることに、同じことの繰り返しはない。」(25頁)は、「でも地球の公転、自転は同じことの繰り返しですと書き込んだ。
 「体の半分はもうあの世にいて、過去も未来も俯瞰するようになる」(30頁)は、そう思いたい気持ちは老人に共通でしょうと納得した。
 「誰か式、だれか風、ではなく、その人にしかできない生き方を自然体という」(34頁)は、模倣ではなくて自然に従って生きると考えた。
 「長く生きたいと思うのは、生き物としての本能。年老いるとそうなる」(38頁)は、そうですね、未練たらしくなりますと受け止めた。
 「食べ過ぎてはいけないし、少なすぎるのもいけない」(43頁)は、」ほんと、ほんとと同意した。
 「杭に結び付けた心のひもを切って、精神の自由を得る。」(47頁)は、戦後、この国の政府から解放された時の自然な気持ちです。だが、アメリカ式自由主義という別の枠に繋がれてしまったと思った。
 「自然の一部として生まれてきただけ、と思えば気負いがなくなる。(51頁)は、その通りですねと賛意を表した。

 ここでブログの長さ制限を考量して書き込みを休む。

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