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2019年1月13日 (日)

篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」(幻冬舎)を読む (6)

 「人生は山あり谷あり。ようやく平地を得たとき、感謝して大事にする。」(166頁)。ここにいう平地を得たとき、の平地はほんとの平地だった経験が山登りの時にはよくあります。だが、この添え書きでは「どんな斜面にも、つかのま安心できる場所がある。」とある。斜面では平地ではない。この後の本文は、「唯我独尊に生きる」とあって、主文相当の大きな活字の文とは関係がない。
 本書の最後の大文字の文は、「自分の心が一番尊い、と信じて、自分一人の生き方をする」(170頁)であって、103歳のいのちを支えて居るのはこの自立心だと、読者は教えられているようである。添え書きに「着物の文化、日本の文化は、末端のほうから途絶える。」とある。なぜ、此処に、このようなことが書かれたのか。
 この年まで生きていらっしゃると、こういう感慨をお持ちになっても至極自然なことだと思います。普段着の着物におさらばしたのが顕著に目についたのは敗戦直後の荒廃した庶民の日常生活からだった。着物など着る余裕はなかったのである。同時に、アメリカ人の生活を真似る衣食住文化が歓迎されることになったのである。なお、この主文(大きな活字の文)には本文(叙述文)は伴っていない。

 「唯我独尊に生きる」が、この本の締めの本文になっているように、自分自身に対する自信がこの人に生きる力を与えてきたことが鮮明である。世界的に有名な美術家(墨を用いた抽象表現主義者)として一生独身で生き抜いた独立自尊の人生のすさまじい気迫がこもった文章に読者は元気づけられる。そういう本であったが、主文(大きな活字)、添え書き、本文(叙述文)によって構成されているこの本の編集方針にいささかの疑問も感じられた。どころどころに、黒塗りのページがあったのには驚かされた。このようなことは秘密文書の公開以外には見たことがない。通常なら、こういうページは削除してから本にするのが、出版社の常識であろう。あえてなぜこれを残したのか。

 さて、このような、唯我独尊による長寿に恵まれる人は極めてまれであろう。大概は、その「我」によって病魔に侵されたり偶発事故に逢ったりして死を迎える人が多いのではないか。
 このような自力本願な生き方と対照的なのは他力本願な生き方であろう。その真髄のような説話が、大谷暢順(本願寺法主・親鸞聖人直系の25世)著「人間は死んでもまた生き続ける」(幻冬舎に書かれている。
 「第1話 自分の思い通りになることが幸せにつながるわけではない」、「第3話 なぜ不条理なこの世を生きなければならないのか」などは、篠田氏の説とはすっかり違って、他力本願への道しるべになっている「『自分が、自分が』という考えを捨てる」(80頁)、「自分が正しいと思うと幸せになれない}(84頁)といった見出しの文章がある。

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