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2019年1月11日 (金)

篠田桃紅「103歳になってわかったこと」を読む(2)

 「どうしたら死は怖くなくなるのか」(52頁)、この項目の文章の前段で語られている著者の自分自身の心の状況についての記述は、この歳であるからこそ到達された境地だと同感し、そういうことが長寿のくれるありがたい悟りだという実感に迫られる。その後段で、「考えることをやめれば、怖くない」という発言に、戦時中の特攻機のことを思い出した。多分、彼らは使命だけを心に描いて突っ込んだのであろうと思った。すべての戦線でも将兵はただ勝つことにのみ心を集中させることで自分の身に迫った死の恐怖を忘れたのであろうと確信した。死が真に迫っていれば死について考える余裕はない。彼方の死について思案するから怖いという感情に包まれるのであると私は思う。

 「考えるのをやめれば、何も怖くない。ただ、『無』になる」(54頁)。自分は死ぬと思いながら死なないことを願う心が作用するから怖くなる。私はそう思う。死ぬしかない戦場ではそのようなことを考える余裕はない。死は使命であるという開き直って強さが心に生まれる。

 ここで第1章が終わっている。この章では死の観念に絡んで「無」という観念が登場したことに興味をもった。「無」は日本人の好む観念である。たとえば、無我、無私、というように自我を否定することに尊さを発見する。無限、無窮という言葉も日本人の好むところである。昔は、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と言って、天皇を支えることが国民の使命とされた。

 このように修飾された「無」ではなくて純粋な「無」とはどのようなものであるのか。それを知りたいのだが、なかなかむつかしいようである。わかったようでわからない。無は有と対(つい)である。有無相通ずるという言葉がある。有象無象ともいう。有象とは有相とも書き、形態・様相を備えたものという意味がある。無象とは無相とも書き、形態や様相のないこと、ものには固定的な実体が無いということを指している。通常は、有相無相・有象無象を重ねて用い、仏教用語としては、宇宙にある有形・無形の一切のもの、森羅万象を指す言葉とされている。とすれば、形象のあるものと無いものが混然と存在しているこの宇宙の中で、形象の舞いものに心を集中させるのが「無」になることなのであろうか。無念無想という言葉がある。篠田桃紅氏の「無」はこのことを指しているのであろうか。この言葉は、仏教用語で、一切の妄念を離れること。無心。とされている。心が空っぽになれば死も怖くはないということをおっしゃっているのであろうか。そうであるとすれば非常に難しい。心には常に雑念が詰まっている。

 私が思うには、死を怖がる余裕があるから死という生の断絶が、まるで滝つぼに落ちるように怖くなる。そういう雑念にとらわれる余裕のない生き方に追い込まれていればそのような雑念にとらわれる余裕はない。それこそ、完全な「無」ではないか。

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