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2018年12月 7日 (金)

「間人」モデルと「個人」モデルの違いについて

 「間人」モデルと「個人」モデルの違いについて、今少し足をとどめてみたいと思う。どうして、「間人」モデルは人々の関心を引かなかったのだろうか。わかりきっていることだったからだろうか。

 「西洋人の『個人』モデルでは、自己は『自我』として意識される。これに対し、東洋人を特徴ずける『間人』モデルでは、自らの存在を対人連関のなかで対象化するから、自他相即的な自意識をもつにいたる。そうした自己意識(厳密に言えば自他間意識)を、日本語では「自分」という言葉で表現している。」(30ページ)

 「セルフ(自我)とは、いかに他人との人間関係のなかから育ってくるものであっても、結局のところは自己の独自性、自己の実質であって、しかもそれがセルフといわれる所以は、それが恒常的に同一性と連続性を保ち続けている点にある。これに対して、日本語の『自分』」は、本来事故を超えた何者かについての、そのつどの『自分の分け前』なのであって、恒常的同一性を持った実質ないし属性ではない。(精神医学者・木村敏死の説明)」(31頁)

 「日本人の『自分』という自己意識がこうした形で生成されるのも、自他がいわば共生的存在であって、自らの存立の根拠を多分に他の人に負うている、と判断しているからであろう。『他者との一体感が先にあって、その対人感覚自体が自己の存在を確証する場合が(日本人の場合)普通ではないだろうか』と星野命も書いている。」(31頁)

 自己を表現するのに西洋人は自我を選択する。それに対して、日本人は自分と表現する。この違いが西洋の個人モデルと日本の間人モデルの根本的な思想の違いを端的に表している。そのような解釈であったと思う。自律的な西洋人と他律的な日本人との違いそのものを表象していると受け止めていいのであろうか。

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