2019年12月15日 (日)

高齢者社会に望むもの

 終末が近いと、年れから判断して思っていても、いつそれが訪れて来るかはわからない。戦時中によくも生き延びられたものだと思うことがある。戦後は、死など考えたこともなしに生きて来た。まわりのひとが死ぬようになって、死について想いを向けるようになったのが戦後の死生観の始まりである。戦時中の死生観はしまい込んでいたし、おもいだす機会もなかった。
 いまぜんざいの死生観は、病死から浮かび上がってくるもので、健康であると、思い煩うこともなかったのである。だが、今現在では、死がまじかに来ているという思いがある。90歳を過ぎている方当然であると思う。しかし、そのようなことに煩わされることなしに、まっすぐに前を向いて歩いていればいいはずである。一番安心な生き方は、神仏にいのちを預けて生きる生き方である。真靴と語らい合いながら毎日を健康に生きる。そのための仕事があればいい。農家ではその仕事が沢山あるので生きることに困らない。そういう事情をテレビで見ることがある。自然と共に生きる仕事が幸福をくれる。
 家庭からも社会からも浮き上がらないで一緒に暮らしゆけるのが理想である。これまでと同じような生き方ができるのが老後の理想である。老人が社会の生産性を高めてゆけるような社会を創ることがこれからの政治の仕事だと思う。

2019年12月12日 (木)

人間とは何かを自問する歳になる

   老齢化という事実は何を物語っているのか。寿命が迫っているという知らせであろうか。生命力によって生かされていることを改めて気付かされる機会であるのか。いずれにしても自分ではどうにもならないことである。いつの程か人生が終りに向かっていたのだと改めて知覚する。最早、医薬をもってしてもどうにもならないものである。それを医薬に頼って引き延ばそうとする医療は不自然である。延命治療と呼ばれている。この反対が自殺である。自ら命を縮める行為であるから延命の正反対である。
 健康を医薬で買うのか、生命力で寿命を迎えるのか。この二つの選択は、昔は、金持ちと貧乏人の違いであった。貧乏人は医者にかかることなどカネがなくてできなかった。今のような健康保険制度などなかったのである。このどちらが幸福であるのか。金持ちをうらやましいと思うのか、貧乏であることを平然と受け止めるのか。貧富の格差と健康とはどのような関係になっていたのか。昔のこの国の姿を思い浮かべると、現在とは隔世の感がある。諸々のことが諸々の関係を結んで、諸々の人生があり諸々の社会が生まれている。諸々に考えながら諸々に行動するのが社会を創っている人間である。人間の生きざまはまことに不可思議である。其処に明解な一つの解があるわけではない。人間とは何か。高齢者となった今、一番関心のあることは、このことである。

2019年12月11日 (水)

悲しいほどに恐ろしい状況のなかに生きている日本人

  いよいよ、夫婦二人で終末に向かっているような日常の状態なので、覚悟だけはしておかないとという思いもするが、まだまだ、死を迎えるのはそんなに容易くはないという思いもする。そうした思いにふけることができるのも平和だからであると、戦時中のことを思い出すことがある。今の人にはそう意追うことは解からないだろうが、それで結構である。子供達にまでその思いをさせるようなことはあってはならない。子供と言っても、もう還暦前後の歳である。孫たちが果たし前後になっている。彼らの歳には私たちは徴兵されていた。今はそれはないが、生活がしにくくなっている。社会の分断とか分裂というのが所得面で起きている。いう処の経済格差が拡大しているのである。
 この国は発展力を失たかのように見える。自ら立つということがむつかしくなっている。海外の影響に揺れ動いているのである。外国に依存した経済構造が定着しているからであろう。世界政治の舞台では、二番手か三番手である。悪くゆけば、四番手か五番手のような状況も見られる。国民に覇気がない。新時代の技術を社会に定着させるのにも戸惑っている。昔から、社会を確信するのは二十歳代の若者であるが、その年齢層がれ転がってしまっている。五十代や六十代がいくら騒いでも駄目である。革新の機運は生まれてこない。その体力と気力がうせているのである。
 ではどうすればいいのか。二十歳代に社会の実験が映る革新の機運が醸成されることが先決であろう。今、香港ではその社会実験が起きているとみていいのではないだろうか。日本では、明治維新がその機会であった。戦後の何回かの社会改革の機会をこの国は殺してしまっている。変化よりも安定を求めたのである。戦後の復興から経済成長にたどり着いたこの国は、1980年代を頂点にして急速に下降して決まった。その地滑りが今も続いている。それを象徴しているのが多発する自然災害である。1995年の阪神淡路大地震がその発端であった。それが、震災、津波、風水害、山崩れなどの連発の状態になり、この国の自然が壊れ続けている。今もその状況は収まっていない。悲しいほどに恐ろしい状況の中にこの国は置かれているのである。日本列島が崩壊しようとしている。

2019年12月 8日 (日)

いずれの頂点を目指すのか

  それぞれの人にそれぞれの頂点がある。無私の頂点を目指すのか、我欲の頂点を目指すのか、この問いかけは、すべての人に向けられている。生き方の違いは生まれた時に決まっていたのか、生まれてから身に着いたのか。人を見てその違いが判る。人間という生き物の不可思議なところは、その違いが大きすぎることである。基督とトランプのように。現在、この比較が一番わかりやすいであろう。それほどに、今の世の中は人類の破局に差し掛かっている。
  ヒットラーがヨーロッパに置かれて、ヨーロッパは壊滅的な打撃を受けた。トランプがアメリカに置かれてアメリカは理想の崩壊に直面している。世界がその恐ろしい影響を受けて動揺している。再び、無秩序な世界になろうとしている。我欲の頂点は人類の滅亡である。基督の復活が今再び起こるのか。我欲の頂点に人は運ばれてゆくのか。
  今、人類に襲ってきているのは、その存在そのものの否定である。我欲がその道を開いている。最早人間性そのものが消滅しようとしている。これを救うのは、無私への導きである。神と動物の間に人間が存在するいわれを再び確認すべき時が来たのである。

2019年12月 7日 (土)

神仏習合に観る日本人の精神

 人の世の終りを知るこの年頃になると、これかや行く先について想いを致すのも当然のことであろう。仏教はそういう世界観を教えたように思う。現世ご利益を説いたものではないと思うのだが、人は仏教に縋って現世ご利益を得たいと思う。これも当然の願いだろう。だが本来のお釈迦の教えと葉次元が違っているようである。現世ご利益を経が右飛とh、印度ではヒンズー教に移ったと言われている。そしてインドでは仏教はすたれてしまった。そのように聞いている。
 仏教は北稜のの山を越えて中国に入りそこで先祖崇拝の教えてして定着したと言われるが、共産主義革命政府が中国を支配している現在では無視されてしまっているらしい。この教えは中国・朝鮮から日本に入って、聖武天皇・光明皇后の時代に全国に広められたという。その証の一つが全国にある国分寺であるともいわれている。京都は皇室とも結びついて日本の宗教のメッカとなった。その前、飛鳥時代には奈良が仏教の中心地であったことを示す寺院が残っている。奈良の大仏さん(東大寺)が有名である。
 その仏教を、廃仏毀釈で破壊したのが明治政府である。それは昭和の終戦まで変わることはなかった。仏の教えを捨てて皇国神道で国民の思想を統一した。その結果が敗戦だった。戦後、進駐軍司令部(GHQ)の指令で、信教の自由の名の下で仏教は復活したのである。中国から移入された先祖崇拝の仏教は葬式仏教として受け継がれている。インドにも中国にも仏教は実質的に存在しないで、日本のみに形式的に受け継がれているんが仏教の現状ではないだろうか。インドはヒンズー教、中国は共産主義と、ともに現世思考で、「あの世」などは人々の意識にも上らないのではないか。釈迦の仏教である人間個人の精神の鍛練でもその教えの筋からして、あの世は出てこないのではないか。あの世信仰は今や日本人独特のものなのであろうか。実は、その根底は、八百万の神を信奉する自然神道にあると思われる。この国では、先祖の霊だけではなしに、すべての生物の霊が祭られている。この自然に存在するありとあらゆるものが霊性を持っていると信じられているのである。石や岩のも樹にもしめ縄を巻いて拝んでいる。人形供養、針供養、箸供養など、自分たちがお世話になった道具類を廃棄する時には供養する。これらに霊性を感じていることに他ならない。
 日本人のこのような生活習慣は、神仏習合の姿勢から生まれているのである。神が仏を抱くという思想があるように思う。佛は神をあがめると信じられている。神は土着であり佛は外来である。この国の自然そのものが神なのである。この国の人々が世界と向き合う姿勢の根源にはこのような神仏習合の心構え(精神的風土)があることをこの際、確認したいと思う。

 神道と仏教を巡っては、両者の争いや双方からの歩み寄りなど、それぞれの時代背景の中でいろいろなことが発生していたが、所詮は神祇、仏教、朝廷の三つ巴の利害闘争であった。理屈はなんとでもつけられたのである。要は利害調停にすぎなかった。本稿ではそうした歴史的事実を敢えて顧みないで、庶民の素朴な信仰心を日常行事の中に求めている。

天に助けを求める

   これで終わりと思うな。人生長生きは牛のよだれのようにいつまでも続く眺めである。人から見てどうであろうと、息長く生きているのが楽しみ。無病息災は自分の生きざまで決まる。病気を寄せ付けない生き方は、単純な毎日を繰り返しながら、喜びをいつも発見することで、でかい夢は自分のマグマが心を動かすまで貯めておくことである。どんな非難も排斥も意に介しないで素通りさせる。自分の一人歩きに確かな想いを抱き続ける。人との競争ではない、自分との競争である。
 自分の育った環境が自分を創った。自分はその環境からたくさんのことを学ばされるように生きてきたのである。自分が進むと、どういうわけか知らないが、いつも激しい敵対が現れて来て、自分の足を引っ張たり、立ちはだかったり、非難を浴びせたり、軽蔑したり、無視したり、ありとあらるる不思議なことが起きた。それをすべて天の仕業と受け止めた。相手が悪いのではない、相手は天の化身のようだと思ってきたので、相手に腹も立たなかったし、相手にすることもなかった。すべてが無視であった、本当の相手は天にいたからである。人間業ではないことが起きていたのである。
 それで、ただ一本の自分の道を歩き続けて来た。黙々と自分のすることをやってきた。それができる身体を授かっていたのである。それが降伏のもとで、何事にも落胆はしなかった。出来たことはできたこと、どうしようもない、自分が選んだことではない。相手から仕掛けられたことであると思た。自分が仕掛けたことは沢山あったがいずれも相手の思うようにかたずけられている。祖の相手こそ天であった。いつも人間は見ないんで天を見詰めた。其処からすべてのことわり(理)が降りて来たからである。それを感じることで、悟ることで、生きる道を発見するたびがこの人生であった。いまもなお続いている。だから一人でいても寂しくはない。にぎやかな時すらある。神々の中に舞い込んだのであろうと思う。この世の人は、私がそう出るように、迷いの中で生きている。でも人間中心にしか考えられないと、それすらわからない。そういう人とは、言葉で何を言っても解かり合えない。人の中にいるのはしたがって絶望の海にいるようなものである。このままではおぼれてしまうと天に助けを求める。

 

2019年12月 6日 (金)

この国の再生にとってのスピリチュアルな起点となった即位の礼・大嘗祭

  何事も先方からやって来る。自分で計画を立ててしようということよりも、それをさえぎるように、これでやれというようにすることが湧く。そういうことをを経験していると、なんだか、神さんの仕業のように思われてくる。やおよろずのかまさんのうちのいづれの神さんであるかはわからないが、人には守護神と言われる神さんがいらっしゃる。そのように教えられ、そのように信じて育ってきたのである。それに仏さんが加わって、神棚と仏壇が家の中では神聖な場所であった。朝夕のお参りを欠かさないのg家庭の習慣になっていた時代があった。今でもそれを続けている家庭もあるだろう。
 そういう平穏な家庭を乱したのが戦争だった。一家の主人だけではなしに、子供もすべて男の子は適齢に達すると徴兵されて戦地に送られた。主人も死に、ひとりあとに残された母親が猫いらずを飲んで自殺したという身近な事件もあった。お国は国民の家庭を次々と壊していったのである。そのうえに空襲で家を焼かれ済むとこもなくなった家庭が沢山あった。コメが主食であったこの時代にコメの配給は1日2合3酌を決められていた。
 敵は、原爆投下だけではなく、都市や山村すらも空襲で焼き尽くした。じゅうたん爆撃といわれる皆殺しを目的にした空襲であった。神さんや仏さんに救いを求めるしかそれを逃れる方法はなかったのである。B29爆撃機による爆弾の投下とグラマン戦闘機による機銃掃射から逃れる術は既になかったのである。大本営発表というのは嘘ばかりであったが、当時は信じるしかなかった。あのまま本土決戦などを選択していたら、国民も国家も消滅していたであろう。その運命を知ら占めていたのが沖縄での米軍も攻撃であった。
 あのまま亡くなってもおかしくなかったこの国が、今のように蘇生したのはそれ自体が不思議である。戦勝国である米英仏中露の5カ国に日本の国土は分割統治されるという案も存在していたのである。もしそうなっていたら今のこの国はなかったであろう。思えば恐ろしいことであったが、無事に独立を認められアメリカとの安保条約に落ち着いたのは不幸中の幸いであったのかもしれない。
 今年は進展欧の即位の礼も大嘗祭も無事に終わって、この国はスピリチュラルな面でも再生を果たしたのである。神代の時代から連綿と續く天皇家の存在が再確認された年である。これからのこの国の再生にとってのスピリチュアルな起点が与えられたというべきであろう。

 

人道を無視した欲望主義による世界の崩壊

  人道のほとんど滅びてしまったこの世界で、何が起きるかは、地獄絵図しか明らかにしないだろう。人間性そのものが消滅し動物の世界に帰ってしまった現在では、弱肉強食のみが生存の基準になってしまっている。トランプ政権の誕生はその警鐘であったが、人はそれに明確なノーをつきつけないで、むしろ歓迎する人々が世論を牛耳るような様相すら生まれているのである。中国も同様に国家を支配する共産党政権の人民抑圧と世界への拡張主義が協力に推進されている。国家独占主義と世界制覇外交がその核心である。これを裏返しにしてぴったり一致するのがアメリカ・トランプ政権の肥大な欲望主義である。ロシアはその頑強な軍事力を地政学的に浸透させる政策を展開している。ウクライナはその戦場と化している。ここでトランプ政権と接触しているのである。EUを解体させる破壊主義がイギリスで台頭し、ヨーロッパの連合政治の危機を感じさせている。これもまた欲望主義の表れである。人道を無視した欲望主義が人類の危機をもたらしているのが世界の現状である。

2019年12月 4日 (水)

生命力と健康

   血液年齢を無料で測定するというので指を突っ込むと90歳と出た。実年齢は92歳の誕生日以後であるから、それよりは若いということであった。51%ですという説明もあった。兎に角健康なのであろう。健康を気にする年齢をとっくに過ぎているのだが、病気になるのは嫌だから、それには注意している。しかし若い時と違って、健康のことに気を煩わされることはなくなった。今現在は、生命とはどういうものなのかに関心があって、そのことを勉強している。
 医薬などというものは、強い生命には必要を感じさせないのだと思っている。生命力が病を寄せ付けない。健康と病気のセットで考えるよりも、生命力と寿命のセットで考えるようにしている。この歳になれば、いつでも病気が押し寄せて来る。それで医薬に縋るということになるのだが、それは堂々巡りであって解決にならない。若さがあれば回復は早いが、老齢化すると病に付け込まれる。最近は、そうしたことに気を取られるよりは、生命力があれが生き延びるのだという思いで、生命力に関心がある。
 生命力を高めるためには、精神を鍛えることが不可欠であるという思いで、精神力を高めるためにはどうすればいいかということに関心がある。幸い、戦時中の育ちだから、そういう心の鍛錬にはしばしば機会があった。風邪を引いても心のゆるみと言われた時代である。そこで幼い時から、命を鍛える技をいろいろと教えられたものである。精神が肉体を創り上げるという教育を受けて育ったのである。だから現在のように、肉体優先の医療や医薬に頼ることは社会的な風習としてもなかった。
 学校は知育よりも人造りが中心であった。人間を育てるのが教育の目標だった。その中で健康が自然と生まれてきたのである。今現在は、学校教育そのものが人間教育という意味では崩壊している。知育に偏った競争が人間の良心を破壊している。そこからう生まれてくるのは不健康な心である。それが身体の病を引き起こしている。それで医薬に頼る。これでは根本的な解決にはならない。健康と病気のセットに結びつく習慣が育つだけである。生命力というものに目を向けようとはしていない。ましてや、自分の寿命に対する感謝をも忘れている。
 こういうことを書き留めているのも、すでに社会から見捨てられた年齢に達しているからである。生命力と社会との対抗である。自然の生命によって生かされている年齢であるから、社会的な尺度では棄却されている年齢に達していること自体にとかくの評価があったとしてもやむを得ない。それに対する正しい答えは、生命力のみがもっている。「日本全国674本の巨樹・巨木」(渡辺典博著、山と渓谷社)を頁を追ってみながら、その生命力に圧倒されている。

 

 

2019年12月 3日 (火)

老いてのちの人生の散策

  日頃、文通などで親交のあった優秀な学者が、71歳で亡くなったという知らせが、奥さんからの喪中状で届いた。年末は毎年、喪中状がたくさん来るので驚かされている。そのほとんどが私よりも若い人の死を告げている。学会に籍を置いていた頃のお付き合いを思い出して懐かしいやら寂しいやらである。
 そして、にわかに、勉強しないといけないという思いに駆られる。研究するには歳がゆきすぎている。そのようなおこがましいことではなくて、自分が理解できる範囲で知識を得るという姿勢である。最近は、それに安らぎと楽しみを感じている。
  70歳と言えば、老境の入口であると思う。ようやく現役を終わって、そろそろ自分の修業に時を過ごせるという思いがする年齢であろう。せっかくのその機会を前にして他界するというのはいかにも寂しい。私はこの20年間をこのような心の環境の中で生きてきたのである。余生を楽しんできたと言えるのかもしれない。現役の時とはまた別の時を過ごしてきたという思いがする。老後とはこの期間を言うのであろうと思っている。さて、これからは、それを過ごした新しい次元に立ち向かわねばならないのであろう。実は、それが経験できるまで生きねばならない。どこまで命をいただけるのか時が経ってみなければわからないが、自然にいのちが消えるまで、長生きしたいものと思う。老いてのちの人生の散策に楽しみを求める心境である。

 

2019年12月 1日 (日)

生きているとはどういうことか

   恐山では、イタコが死者を呼び出して会話する。AIの研究者がこれをAIにやらせる時代が来ることに期待を寄せている。あの世とこの世が会話でつながるのである。イタコであれば疑心暗鬼な人でもAIであれば信用するのであろうか。我々は、日常的に死者と出遭っている。それが死者との思い出である。それ以外では、想像や想念によって異界の生命とつながる。
 神仏の信仰はこのタイプである。生者である人間の一方的な想いが神や佛の存在を認めるに過ぎないのであるが、少なくとも常識的にはそうなのであるが、神や佛の存在感を肌身に感じるともよく言われている。人間の感性がその思いを運んでくるのである。伊勢神宮に参拝して、「何事のおわしますかは知らねども・・・・」と詠んだ詩人もいる。参拝して、神々しさに心が打たれたのである。神代の世界が目の前にあるという感覚に体がすっぽり包まれたと言っていい感じだったのであろうと思う。
 つい先日に行われた大嘗祭で天皇が天照大神と食事を共にされたということを理解できるのは、神の存在を心に受け止めておられるからであろう。我々が神社に参拝して拝礼するのも、どうようの心が働いているからであろう。死者のために仏事をするのも同様の心理に根差しているのであろう。こうしたことを原点として神仏と人間の共存が確認されている。それは科学的な証明などといったものとは別の次元のことである。
 心霊現象の次元に神仏が存在している。そのように思うことでいいのだろうか。心の迷いだという人もいるかもしれない。このような受け止め方、あるいは発想は、人間中心の発想である。そういう人には神仏は無縁である。それはそれでいいのであって、それで生きてゆくことになる。
だが、神仏を信じる人は、神仏が人間を超えた絶対的な存在であることを認めている。人間中心の発想ではなくて、人間を超越したものに畏敬の念をもって生きているのである。神事・仏事はその思いを形に表したものである。
 その思いの中で、人は異界との交わりを保つのである。神霊の世界、御仏の曼荼羅の世界が人間を包み込むように存在しているという観念を人は抱くようになる。それが信仰の始まりである。自分を超越する何者かによって自分が導かれているという確信が、事実として現れるのも、この心の次元からである。この境地に淘汰することはむつかしいものではない。それは「無」の世界に身を置くことであると教えているのが「般若心経」であろう。
 

世界は再び混乱に向かうのか

  また日が暮れる。夕方6時前だがが暗くなった。5時過ぎが夕暮れ時なのだ。師走に入った。これからひと月を人々は過密に生きる。年末年始に向かってゴー。昭和12年7月7日に日支事変勃発、16年12月8日に大東亜戦争(のちに太平洋戦争という)が始まった。真珠湾攻撃である。20年8月15日にポツダム宣言を受諾して無条件降伏。軍閥政府から国民が解放された。これらのことは私にとっては歴史ではなくて実体験である。昭和2年の生まれだから、昭和6年の満州事変の時もすでにこの世に生を享けていたのであるが、この国が戦争していたという実感はなかった。満蒙開拓団が渡満したという話は聞いたことがあったがよそ事のようであった。小学校に通うよりも前のことなのである。昭和9年4月に小学1年生になったのである。今も鮮烈な記憶になっているのは(第1次)室戸台風である。
 この国は、自然災害と戦争で苦しめられてきた。昭和20年の8月の終戦以来、平和で助かっているが自然災害は依然として続いて発生している。
政治は混乱せずに保守政治で安定している。民主党が政権を担当したときもあったが短期間であった。2012年の12月あたりから今日まで安倍政権が続いている。お蔭で経済も安定し、株価も20,000円台を維持している。バブルの頃は39,000円を超えた時があった。その後7,500円程度まで下落した時が最悪だった。あの時は、総理がドジョウと自らニックネームを公表した民主党政権の時代ではなかったか。
 戦後政治の終りを象徴するように、あるいは、それを見届けて安堵したかのように中曽根元総理が「大勲位」の生涯を終えた。昭和の時代が名実ともに終わったのである。安倍政権は、安保政治の発端を開いた60年安保の岸信介内閣の後を継いでいる。其れから来年で60年になる。来年は世界政治の転機になる。イギリスのEU離脱、アメリカのアメリカ一国主義、世界各国での政治分裂の高まり、右翼の台頭など、穏やかではない。中国、ロシアの世界制覇の動きに対する英米仏の対抗、NATOの動揺、東南アジアの不安化、イラン、イラク、サウジの抗争の激化、再び戦乱の時代に戻りそうな気配がある。世界を収め得る指導者がいないのがその原因だと言われている。

 

ハートとテクノロジーの交響

 この人生、いかに生きるかの答えは、ハートとテクノロジーの交響に求めるという姿勢が生み出してくれると思う。ハートとは、芸術とか、宗教とか、文学とか、心を動かしてくれる動因を包括した言葉である。テクノロジーとは、科学、技術を総称するものである。心無きわざとはハートを欠如したテクノロジーの行使で、知識の悪用を指す言葉である。科学研究が兵器の開発に特化すればそれから生まれて来る弊害はハート無き殺害である。核兵器の開発がその典型であろう。核兵器の生産、販売、保持は、人類をはじめ、すべての生物のいのちを奪う暴挙を発動させるリスクを持っている。

 

宗教と科学の絡み合う叡智

  この世は科学、あの世は宗教、この世も宗教、あの世も科学、このように入り乱れた世界が我々人間の生存している時空である。この四つ組の構造のなかにわれわれは生きている。このいずれを切り離すこともできない。これは動態であって常に変化しながらその絡み合いを続けている。それが我々の知る歴史である。宗教史と科学史は絡み合いながら成長している。
 ローマ法王が動けば13億人が熱狂する。地球上にそれだけの信徒がいるという。天皇の即位でこの国は神道一色の国家観を改めて国民が感得したばかりである。いずれもあの世の世界から降りて来た信仰に支えられている。日常生活には何の関係もないと思っている人々も無言の影響を受けている。宇宙から降り注いでいる神の愛に包まれたことであろう。無関心な人もその中に包まれている。無限、無量の計り知れない神の傘に覆われたことを素直に感じる人々が大勢いたことであろう。
 現にそれが、この地球上に住む人間の一つの姿である。事実として人々は目にしたであろうし、体験したであろうし、情報として知ったでもあろう。科学は今、このの世界を無限に拡大しようとしている。生命体の存在を求めて宇宙に探索の手を伸ばしている。若者たちも、科学好きな老人たちも、その経過を伝える情報に熱狂している。太陽系を含む銀河系に少なくとも惑星が1000億個存在することをフランスなどの国際チームが明らかにした(2012年1月30日付け読売新聞)。銀河系には太陽のような恒星が1000個あるとされ、すべての恒星が1個以上の惑星を持つことになる。生命のいる惑星が地球以外に多数ある可能性を示す成果で、英科学誌に発表されたという。
 我々地球上の人間は、その生命をわかつものが地球以外の惑星に生存するかもしれないという期待を、科学によって手に入れようとしている。この宇宙の神秘を宗教はその教えのなかで説いてきたのである。釈迦の教えである「般若心経」はそのことを率直に述べたものであることが、科学者によっても確認されている。数々の宗教上の経典も、神事のような行事も、宇宙の神秘を解いている。最近の量子力学による発見がそのことを裏付けていると言われている。

2019年11月30日 (土)

「大勲位」の死

   昨夜は、自分もびっくりした。突然、腹痛があって、軟便が群れて出た、それが夕食後で、朝方まで続いた。腹痛も熱もないが回数が多いので疲れる。下着の取り換えも頻繁だった。今朝は9時前には自然に起床し朝食の用意をする。今のところ腹痛もないし、鼻水も出ない。普通の健康状態のようである。急に冬になったので気候の変化に襲われたのかもしれない。肥大の下肢の硬直が時々起きる。膝からつま先までの骨が硬直する。
時々起きているが、しばらくすると自然に治まる。
 今朝の新聞は「大勲位」死亡のニュースで紙面が埋まっている。戦後の大政治家、ロン・ヤス時代の構築、日米同盟の深化、国鉄民営化など、戦後政治を築き上げた人物の死に、国民は自分の生きてきた時代を重ねている。101歳とは見事である。令和の幕開けと重なった。即位の礼、大嘗祭、京都御所での親謁の儀が無事に執り行われたばかりの時である。まさに、「戦後政治にさようなら」のサインのようであった。こうした天下の大事の符合に天の計らいがあったように感じる。「新天皇の即位と戦後を築いた総理の死」がこのように重なったことに複雑な思いがする。
 こうしたことに、不思議を感じるか感じないかはその人次第である。きわめて個人的な感想に過ぎない。だが、これに似たような経験は多くの人が自分の一生のなかで経験しているはずである。それに気づかなかっただけのことであると思う。

2019年11月29日 (金)

科学技術の発展と犠牲

  原発の不安は、それが未成熟な技術に頼っているからおこっている。原発が不可欠なエネルギー源であるというのであらば、不安のない安全な現オ発を開発すべきである。先のローマ法王の言葉を私はこのように解釈した。未熟な技術で原発を稼働させていることに問題がある。原発の科学技術をこのままで使い続けるのは殺人予備罪にも相当する。それぐらいの思いをもって技術開発をしてもらいたい。それができないというのだあれば、小泉元総理のいうっように、原発ゼロにすべきでしょう。
 医療の世界でも同じことが言える。未完成な未熟な医療技術の人体実験をするような医療や投薬は犯罪なのです。昔、この国にも「学用患者」というのがあったと聞く。人体事件をするためのかっじゃでその代わり理に医療費無料というのではなかったか。732部隊と同様な犯罪である。それが医療の世界では通用している。研究開発に不可欠な実験だからであろう。今でもひそかにじっしされていることは間違いないでせろう。制約が居さhにとっては不可欠な実験である。医者は自分の処方に患者を有無を言わせずに従わせる。事務んを何様だと思っているのであろうか。製薬会社の仕事の一端を担っているにすぎ何のではないか。従来から、製薬会社から多額の報酬が医者、医療機関に流れ込んでいる。
 アメリカの原爆投下は、原爆の効果を知るための実験でもあった。その罪は問われていない。科学技術はこのようにして開発されている。人体以外の生物実験は当然のように行われている。生命の尊厳という認識がご都合主義に任せあられているからであろう。

 

 

老年の立ち位置

 もはや、この世のものではないのだから、この世についてとかく思うことも、言うこともない。だがまだ、あの世に逝っていないのだから、あの世について何も言うことはできない。何も知らないのだから。このような宙ぶらりんな人生を今経験している。そういう時空があったのだとは知らなかったが、人生を歩み続けてやってきたところがそのようなところであった。
 振り返ってみるこれまでの人生は、遠い遠い霞のなかに在る。最早すべてが判然とはしないが、確かにこれまでに超えて来た軌跡が残っているようである。これから行く先もまだはっきりとは見てていない。朦朧としているのは歳のせいかもしれない。あたりが闇夜というわけでもない。夜明けの明かりが差し込んでくるのを待っている。金色に輝くのか、七色の虹がかかるのか、白夜の先に黎明がさすのか、いずれであるかはわからないが、今このままの状態ではなさそうである。どのようなものであるのか、こころが躍るようであり、期待に揺れるようでもある。それが老年の偽らない立ち位置である。

2019年11月27日 (水)

いのちに触れる

   認知症、心不全、歩行困難、足腰の痛みを訴える家内を車椅子に乗せてトイレに連れてゆくのが毎夜の日課である。一晩、4,5回であるから、こちらは眠れない夜になる。これを続けるとこちらが駄目になると言われているが、どうしようもない。施設などに入ってもらってもそこにこちらが通わなくてはならないとなると、更にしんどい。その方が疲れることは明らかである。まだ、家におるほうがいいという判断を続けている。
 さてそんな環境に生きているのだが、今のところ何とか健康なようである。生きるってどんなこと? 自然とそういうことを自問する。人生の意義なんてことまで考える。いのちとは、という問題を設定して久しいが、答えはなかなか出てこない。人間とは、という問いにすり替わってしまう。
 人間の生きる環境も、これまでとはすっかり変わって、量子の世界を前提にした話が沢山出てきている。宗教で教わったことと、科学が解明にしていることとが、お互いに繋がってしまうような議論が多く出ている。科学を支える唯物思考と宗教の背後にある観念的宇宙観とが、唯心論によって統合されるという話もある。宇宙の生命体としての人間の科学的根拠の解明という研究努力が多々出ているようである。最近は、量子コンピューターがこうしたことの研究に飛躍的な発展をもたらすのではないかという話も出ている。未知への挑戦の手掛かりがこのコンピューターによって飛躍的に発展するという期待が寄せられている。
 死出の旅に出るのが相応しい年齢であるが、こういう話を耳にし目にすると、とても死出の旅には出られない。何とか長く生き残って、事の次第を確かめたい欲望が湧いて来る。何としても勉強したいという意欲に駆られるのである。そして、これが、「いのち」だと思う。いのちとは、そういう働きをするものだと実感する。いのちの正体は解からなくてもいのちの働きは実感する。知的躍動感を湧き立てるのが、いのちの働きであると納得する。

 

食事会に感謝して

 病気ではない。だが体力が徐々に衰えてきて、しんどさが増している。このようにして衰弱してゆくのであろうか。これを自然弱りといったことを覚えている。どうしようもないということである。根気が亡くなる。無理がきかない。吐息が出る。こんなはずではなかったのにと思ってみてもどうにもならない。こういう時は自然に任せるしかない。無理に張り切ってみるのは無駄である。無理は必ず後でたたる。
 今日は昼食会があったが、70歳代の参加者が殆どで、6人の集まりを私を囲んで開いてくれた。皆さんはまだまだ老いを感じないように見えた。確かに現役を引退して10年近くは経っているのであろうが、日常生活は自由を満喫した生き方を楽しめているようであった。80歳代の方がおられたようであるが、この方も生気を感じさせる力を温存されているようであった。92歳の誕生日をこの月に超えた私とはやはり違った若さが潜んでいるようでうらやましい思いがあった。
 どうしようもなくなった自分をどうしていくのか、そんなことをふと思ったりしながら、静かに生きることを心に決めている。この冬を越せばまた春が来る。それを楽しみにこれから来る冬の日々を過ごすことにしようと思っている。こういう機会を設営してもらったことに感謝しながら、その好意に応えるべく元気でいたいと願っている。

人類の危機が迫っている

   世界が動く。大きく動く。どこの国も支配できない。全く新しく造り替える天意が発動されている。人間の行き止まりを天意が打開する。そういう兆しが見えている。これが本当のスピリチュアリズムであろう。もはや人間に任せてはおけない。人間の堕落、倫理の崩壊は天が許すところではなくなった。神道、キリスト教、仏教にその動きが現れている。他の宗教においても同じような動きが現れてきているであろう。
 このように理解される世界の動きが人類の破滅を救うことになるのか、人類が地球を破滅させるのかの瀬戸際に立っている。核兵器戦争が始まれば人類は終末を迎える。それを回避する世界の政治指導者が現れなければ人間は消滅する。小さな国がこの危機の引き金を引く。それが最も恐ろしい危機である。

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