死は慶福の門出である。よって、慶賀すべきである。

 厭離穢土、欣ぐ浄土であれば、あの世に行くことはめでたいのではないか。直に長寿の人の死はまさしくお祝いに相応しいと思う。そう思っている本人も多いのではなかろうか。人の死を弔うというのは成仏してもらうためだという言い習わしもあるようであるが、それならばむしろ、死後への旅立ちを祝う祝賀会にすればいいのではないか。そもそも、あの世に行く人を弔うとはどういうことなのか。この世に埋葬される死者の成仏を願って弔うというのであれば尤もだと言っていいかもしれないが、極楽浄土に往く死者を弔うのはおかしいのではないか。すべからく、人の死はその霊魂が死体を離れて宇宙に戻るめでたいことと受け止めて祝いたいものである。そういうように発想を転換すれば死の悲しみは消滅するのではないか。そもそも死を悲しむのは悲しむものの自己満足である。死者のための発想ではない。

 死者の旅立ちを祝ってこそ明るい世の中が拓ける。我もまたいつかはそのあとを追うと死者に誓うのが葬送ならぬ旅立ちの祝いに相応しいのではないか。戦陣に散った将兵を励ましたのはこの心であったであろう。将兵は自分の死を弔ってもらうことを願って戦場に散ったのではないであろう。使命のために散ったのであると思う。命を惜しまない生き方にこそ誇りがある。その人の死は祀られてこそ意義がある。慰霊にも悲しみは無用である。ここでもまた明るい気持ちが先立ってしかるべきである。

 人の死を乗り越えて明るい社会を築くことが死者に対する礼であろう。そうであれば、死者を弔うのではなくその死を慶賀すべきであろう。死者に霊があれば、天上から微笑みを返してくるであろう。

2019年4月13日 (土)

死生観散見・今どきの日本人

 我々日本人は、武士の世であった江戸時代に、藩主のために死を選ぶことを誉れとする「武士道」なる死生観を成立させ、町人の世界でも模倣されて、個人商店である「お店」の勤め人を「奉公人」という習わしがあった。雇用主が藩主に擬せられたのである。国民皆兵で兵役が国民の義務になった。召集されると「奉公袋」を家族が用意した。「公」は「上」と同意義であった。将軍や藩主は「上様」と呼ばれていたらしい。明治以後、「お上」と呼ばれていたのは財閥の当主であった。国民は天皇との距離の違いで、「臣」と「民」に分けられていた。臣下と市民は違った存在であった。明治以後、公・候・伯・子・男の爵位が設けられ、貴族院議員が生まれ、華族に列せられた。公卿・大名の家系の呼称であった「華族」の呼称が維新の功臣や実業家にも適用されるようになったのである。こうして明治維新以後、武家社会に変わる新しい階級社会を形成するに至った。天皇を頂点とし、そのもとに、皇族、華族、臣下(官位を有する者)、民(官位のない人)が配置される。敗戦でこの秩序は法的には存在しなくなったが、人々の心の中にはなお生きている。それを示すのは天皇との距離を示す叙勲・叙位である。現在はすべての国民が「市民」として平等に扱われているというが市民主権が発動するのは、国家議員や地方議員を選ぶ選挙だけである。あとの権利は官公庁によって掌握されている。これが公権力の行使として市民に向かって作用する。徴税の権利と納税の義務は官公庁と市民の関係を示す最高の表象である。

 

 国家に徴兵権があり国民には応召の義務が課せられていた国民皆兵時代は国民のいのちを国家が握っていた。国民はその義務に服したのである。武士道由来の死生観が国民に受け入れられたのもこの制度が存在していたからである。現在は、徴兵制度が存在しないので、国民は安心して自分の生活設計ができる。名誉の死のために生きる覚悟を求められなくなったので、国民は生きると目に死と立ち向かう生死観の形成を必要としている。それが社会の秩序を弛緩させている根拠でもある。自分が生きることに狂奔し他者を死に追いやる社会現象が蔓延している。だが、国家に変わって、会社や官公庁その他の職場がそのもとに働く人間を死に追いやるケースが目立っている。過重労働による死がある。だが、そうした労働環境を積極的に捉えていたのが「会社人間」であった。会社の利益と自分の利益が一致する関係の構築に成功していたのであろう。その典型は、国家の利益と国民の利益が一致するはずの戦争であったが、敗戦によって一切が無に帰したどころか、350万人以上の国民のいのちが奪われた。戦地にあっては餓死、国内にあっては原爆死、B29にお夜空爆死が国家の息の根を止めることになった。

 

 高度経済成長をもたらした1980年代の日本の繁栄は「会社人間」が創りだした成果であったろうが、1990年代、2000年代の「失われた20年」に無残にもこの国はその後の産業の崩壊の元祖ともいうべき金融危機を経験している。その上に、1995年の阪神淡路大地震、2011年の東北関東大地震に見舞われ自然からも見放される経験をしたのである。その結果であろうか、日本人が戦後再び「死」に関心を持つようになった。死と直面させられたのである。2015年ごろから日本人の意識に大きな変化が表れている。天変地異の頻発に加えて、ITとその関連技術の急速な進歩が世界で起きている。情報科学技術と生物物理学、医学医療科学や生命科学などのドッキングが科学技術の異次元の発達を可能にしようとしている。21世紀の産業革命の地盤が整いつつある。その中で人口減少社会に転じ国力が衰退しつつある現状に国家的な焦燥感が動き出している。迫りくる死からの生還が今の日本人が求めている必死の課題である。 

 

 

 

 

2019年4月 6日 (土)

鎌田東二X南直哉 「死と生」(東京堂出版 2017)を読む

 この本の213頁に、「私にとって、『老い』というのは、何かがが失われていくことではないんです。何かが人間の中で膨らんでいくことなんですよ。ある力が働いて内側から壊してゆくものとして感じます。」という南氏の発言がある。これは入院中の老人が、下半身が麻痺していて排泄感覚がないので、思いついては、看護婦を呼ぶためにベルを押させる。看護婦さんから、もう頼まれても押さないでと入院中の南少年が頼まれた。押さないでいると、老人は、自分の股間にやかんの水を撒いてと頼まれたの撒いた。南少年は頼まれるままにやかんの水をまいた。それがおしっこしたように見える。という事件がこの発言の前に書かれている。

 このように膨らんで壊していく力、言い換えれば「死」のほうが生よりずっと強度が高いんです(214頁)と南氏は言っている。それは、内部で育っていって、いつか爆発するという感じなのです(214頁)とも言っている。老いは死に向かって育つ過程だと言っているのに等しい。つまり、老いは破壊力なのだということになる。老いは人間を心身ともに侵食する力のはたらきだということになる。その結果人間は、死体に向かって「完成」することになる〈215頁〉。

2019年3月18日 (月)

映画「グリーン・ブック」を観た感想

 今日は、映画「グリーン・ブック」を観た。眠気は襲ってこなかった。初めから引き付けられたようであって。会場は中高年の観客で埋まっていた。アメリカ南部での黒人差別の徹底した凄さを紹介するような画面が多くあった。白人がこの黒人歌手のドライバーを務めて道中でいろいろな差別を経験する。

 なんだか、この映画に突然、トランプ氏が飛び出してきてもさまになるような気がした。オバマ氏のこともちっらっと話になっていたが、彼を呼んできてもいいような場面が多くたった。アメリカでは黒人差別が社会の中にしみこんでいる様子をまざまざと見せつけるような映画であった。

 ニュージランドのモスクで信者が銃撃されたニュースが今日出ていた。白人至上主義に感染した白人青年の犯行であって。kkkはアメリカでは顰蹙されているが、隠然たる勢力を持っている。トランプ氏がkkkを擁護するような発言をして物議をかもしたのも最近のことである。

 人種差別は古くて新しい問題であるといまさらのように思う。ヒットラーのユダヤ人虐殺はその典型的な事件であった。どうして人間同士がこのような争いから抜け出せないのか。

2019年3月17日 (日)

介護しながらの日々を過ごす

 今朝は曇天で寒い。3月丁度半ばの日曜日、9時50プう頃に起床する。真夜中は1時間半に一回くらいの割合で家内を車椅子で便所に運び、終るまで待ってベッドに連れて帰るという労働がある。これでこちらの体がくたくたになる。夜中の睡眠の質が良くない。

 その日その日で何事も状況が違う。転機と全く同じである。天気予報のようにあらかじめわかるといいのだが解かるようでわからない。気象が大きく影響していることは確かである。寒暖の差、湿度の違い、風の具合、日照りの変化など、微妙に影響している。改めとそれを確認した。病院などは具合の悪いところだということがわかる。自宅が良好な環境である。そのためには、余計な家族はいない方がいい。今は家内と私だけの二人が住んでいるので都合がいい。邪魔者はいない。24時間緊急連絡先の電話番号を契約して戴いている。訪問看護師がまさかの時に来宅してくれる。すでに一回あった。呼吸不全が悩みである。

 起坐呼吸が一夜に何回か襲ってくる。そのたびに水を飲むのだが、飲みすぎて水が体内にたまるのでよくない。心不全賀襲ってくるリスクが高いと言われている。水を下ろすための薬を処方されている。BNPの値が高くならないようにせねばならない。二か月に一回外来診察の予約をしている。調子が悪いと月に一回の診察になる。今のところ隔月の診察で済んでいる。診察の一時間前から、採血、胸部レントゲン、心電図の撮影がある。その結果を医師が見て診断し患者に報告する。その時の患者と医師の会話でその後の処置が決まる。認知症をMRIで確認してから5年半ばである。精神神経科の医師が退職してからちょうど1年になるが、その間、その診察は受けていないし投薬もないので病状は自然に進行しているようである。この種の投薬はない方がいい。医師もその判断に傾いていた。

2019年3月15日 (金)

AI ,IoTが高齢者を活性化する時代に移りつつあるのではないか

  あわただしい春がやってきました。イギリスの今の政治状態は国家が滅びるようなリスクを感じさせないでしょうか。アメリカの今の政治は弱いものを徹底的に締め付けて降伏させたり自滅させたりするような気配を帯びていないでしょうか。もはや同盟というものも機能しない独善主義のアメリカは世界のリスクになってきているのではないでしょうか。そんな危惧を感じながら今朝も何とか平和な朝を迎えることができました。このような世界の政治を転換できるのは誰でしょうか?その役割がこの国に回ってきているのではないでしょうか。そうであるとすれば、オリンピクと万博がチャンスです。

 世界最先端の科学技術で世界にあっと言わせるほどの実力を発揮してほしいですね。それがあってこその政治・経済です。

  新しい次元の福祉国家建設の基礎にそれがあれば政治の転換も可能でしょう。福祉の意味も変わってきました。弱者保護という理念はもう陳腐化しています。高齢者を社会の中心に置いた社会モデルの建設がその課題になってきているでしょう。6070歳世代はその活動の中心的存在でしょう。この世代が国家の富を生み出す原動力になる時代だと思います。掛け声は「一人一仕事」でいかがでしょうか。年金をもらうのではなくて年金を生み出す世代に転換するのが使命になって来たと思います。身体の老化を穴埋めしてくれるのが、AIIoTなどのメディアでしょう。そのおかげで、高齢者も機能する存在の地位を確保できる時代に向かっているのではないでしょうか。

 デジタル病が社会を襲っている

 今朝もまたすっきりとした目覚めだった。。「兎に角行脚「」、今朝の声だった。そうだと思う。それしか残っていない。そして、これまでの人生も、生まれて以来、行脚だったと改めて思う。

 今年は満92歳の年である。今誕生日に向かったその道を歩いている。最近、めがながもちしない。それが気になるし、厄介であるが、視力の減退であろう。歯も少なくなっている。世に言う老化の順当な進行である。そうであっても長持ちしてほしい。眼は大空を見つめることで視力が回復することは少年時代から経験で知っている。戦時中はそうして目を鍛えたものである。今はパソコンだから、だめなのは解かっている。

 都の中は科学の進歩とともに不健康増進の方向に進んでいる。最近はスマホ老眼まで登場しているようであるから、デジタル病がいろいろな形で増殖するのであろう。科学技術の進歩が人間を退化させるという皮肉な結果が出ている。

 人間は、アナログに生きることで、分相応な生きかたができたのであると思う。そのように人間は作られている。それをデジタルに生きようとするから不都合が多々発生する。科学の進歩はそれから生まれる弊害を修復する技術を伴っていなければ完成とは言えない。

2019年3月14日 (木)

映画「運び屋」「マラソン」「家族のレシピ」を見比べて楽しむ

 映画「運び屋」は、90歳の老人が経営してぃた農園らしきものを税金不払いで差し押さえられたというシイーンから見た。それがきっかけで、麻薬の運び屋になった男の生きざまが痛快であった。体力、気力、機智が優れていて見事に成功する.その大金を寄付したり淡々と暮らしている様子が安心感を与えて呉れる。この人物でなければできないような見事な演技が観客を引きつけていた。老後の生き方には社会に対する無言の抵抗が秘められているようであった。同じ年齢である私も、この秘められた抗議には痛快であった。人生を思うように生き家族には認めてもらえなかった一人の男が、その人生の最後に、違法と承知しながら麻薬の運び屋になって大金をつかんだのが皮肉なようであったが、最後に、ワイフのがんの病床に現れて家族との和解を果たして、警察に逮捕されたシーンはすがすがしさのような感じすら与えて呉れた。覚悟の人生が見事であった。文芸作品の域に達していた。

 この映画の先に見た「マラソン」は、深みがない。東京マラソン協賛映画のような宣伝臭まで感じられた。行きはマラソン帰りは戦争というのも消化不良な展開であった。老いも若きもマラソンという光景すら無理強いのような展開であった。娯楽映画はこの程度のものかという印象だった。心理的は深みのない映画だった。

 映画「家族のレシピ」は、今どきの日本の青年が何に悩み、どのように生きようかという生活の選択をストーリーにしたもので、アジアでの日本軍の行状を暴く老婆の姿が印象的であった。一人の青年がシンガポールを舞台に人間的に成長する姿がよかった。この映画はそれなりの教訓を今の日本人に伝えてもいた。アジアでは信用されないどころか憎悪すらもたれている日本人という現実が、今の日本人ののど元に突き刺さったとげであることを教えてもいた。国際親善のなかで生まれる家族の連帯感が救いのような映画であった。

2019年3月10日 (日)

言葉の選択と教養

 書き言葉、話し言葉の違いははっきりしている。話し言葉はローカル色がはっきりと出る。それだけにその地方の人には親しみやすい。書き言葉は標準語が主体でつくられた言葉である。学校でも勉強はこの書き言葉でするから襟を正したような姿勢になる。

 書き言葉は国民の言葉を全国一律に統一する政府の意図が働いている。標準語のお手本になった言葉が時の政府の力を反映している。この国の政府は明治以来、東京にあるから、東京で考え出された言葉であるかもしれない。どの地方の方言に近寄ってもいけない。多分そうした配慮のもとで作り出されたのであると思う。

 標準語を読み書きに使えないのは恥とされていた。小学校の低学年でそれをしっかりと教え込まれたものである。それが外向きの時間であった。時間外には友達と地元の言葉でしゃべっていた。それが内向きの時間で心安くリラックスしていたことを覚えている。

 我々の内と外の使い分けは、こうした言葉の使い方から始まって、すべての生活分野に及んでいた。江戸時代と明治維新、和風と洋風、和式と洋式、日本料理と洋風料理、和文・漢文と洋学、漢方医学と西洋医学など、我々の生活は和・漢・洋を裁然と区別しながら地層のように堆積してきたのである。

 戦前・戦中には漢字が氾濫していたが、戦後は片仮名が多用されてきた。外国語を一度は日本語に翻訳して片仮名を振ったが、いつの今にか片仮名が独立して、役所の文書にも使われるようになった。そして今は、英語がそのまま通用している。英語や他の外国語のそのままの表記が多く使われるようになっている。

 言葉からくる感覚を、我々はどのように受け止めているのであろうか。和・漢・洋、それぞれの言葉から出るニュアンス(響き)は違っている。英語がわかるかわからないか、使えるか使えないかで、教養の違いを見分ける時代もあった。今は、わかって当たり前、使えて当然の世の中に変わろうとしている。その助けをしているのが片仮名である。

完全自由競争でこの国を再生する時である

  大学が受験性を選択しているのか。受験生が大学を選択しているのか。

 入学試験によって受験性を選択するのが入試であるが、その前に、

 受験生が出願するか否かによって大学を選択している。更に、受験生は

 合格しても入学しないという選択もする。大学と受験性の間には夫々

 選択権が働いている。これが受験市場での取引の実態である。大学が

 受験生を評価すると同時に受験生が大学を評価しているのが大学受験

 である。物品やサービスを提供する市場で売手と買手の双方がお互に

相手を選択しているのと同様である。

 市場関係者である大学と受験性のどちらかが一方的に相手を選択

するのではない。それを誤って、大学が入学を許可してやるという

一方的な権力の行使と幻想しているのが大学関係者であるかもしれな

い。彼らは市場取引という観念に薄いからである。これは企業が

市場取引を企業による一方的な相手の選択と誤解するのと同じこと

である。これを実行する可能性のあるのが独占企業である。だから

自由市場経済ではこれを排除するために独占禁止法が適用されている。

大学受験でそのようなことがあるだろうか。これに相当するのは

受験資格制限である。これを取っ払って誰でもが受験できる資格

無制限の入学試験制度を採用すれば、受験市場での自由競争が成り立つ。

それを実行している国もある。だから12歳でも大学生が生まれたり

するのがアメリカである。日本もこの方向に動かねばならないと思う。

自由主義経済とは本来そういうものである。その根底は能力主義である。

是と全く反対なのは、能力の疑わしいものを金銭等の寄付で入学させ

ている「医学部」である。企業取引では欠陥商品の納入がそれにあたる

であろう。規格を守らない、検査を誤魔化すなどの不正がこの国では

横行している。これなどは自由主義経済の破壊行為である。この国

では、入試でも商品・サービスの取引でも自由市場経済の不正な破壊

が横行している。

 これらのことは、一方的行為による競争経済の破壊であって、

自由主義経済を標榜する国家のするべきことではない。公正取引の

形骸化はこの国の発展を阻害する。さしずめ入試では年齢制限の廃止、

資格制限の撤廃が求められる。能力本位主義に徹して自由競争を貫徹

すべきである。それが「世界で競争に勝てる人材」の養成に貢献する。

企業も姑息な取引と決別すべきは勿論、技術力で世界と覇を競う本来

の姿に戻るべきである。

 「医学部」は閉鎖社会を志向している。業界だけの内輪の論理が

横行している結果を出した。「独占企業」の不正はサラリーマン重役

や幹部が自己保身にのみ集中している結果が部下たちから出たので

ある。平和と安定にどっぷりと浸かってきたからこういう結果になった。

人材は育たない、企業行動は破壊されている、そういう現状ではないか。

これが平成30年の決算である。CPAに社会監査を義務付けてもらいたい。

 

 

 

 

 

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