瞑想 誰彼

 私の中の誰彼が私の予期しない時でも行動する。これはびっくりだが、それが普通になっている。何が何かと不思議に思うこともあるが、常には慣れきっているので、またかと思う。だがそれで私が迷惑することもある。そうだと思っていたが、それでよかったのだという結果が出ていたりする。結局そういうことで、私は誰彼と共同生活しているようである。自意識と無意識が混在している。その色合いは時によって違うが。何もない時は白だと言っていい。光であるときもある。どのような色かは発動する時によって違う。
 自由自在と不自由が重なっているので厄介である。どちらか一つということがない。人並みに体も弱ってきた。この頃は、もうこの人生も終わっているのだからという気持ちが先に立っている。その気持ちで見ると何事も穏やかである。喜怒哀楽は平準化されていて、どちらであってもおなじであるという感覚が優先している。今現在、自分の目の前にあることも、身近で起きていることも、かなり遠くで発生している事象のように感じられるし、そのように見えて来る。まるで遠くの山を観ているようなものだし、遠くの空を見詰めているようであもある。人が近くにいても遠く隔たっているような感覚である。身近というか、自分の中の誰彼が勝手に動かないように願っている。だが、それは無理な注文のようである。誰彼には存在の自由があるようだから、私がコントロールしたり、排除したり、忌避したり、歓迎したり、依存したり、とにかく私の気持ちに沿ってくれるように願うことも何の働きにもならない詮無いことである。
 でも、こうして文字にしているとその気分もおさまる。誰彼と対話しているような感覚があるからであろう。誰彼が見ている、聞いている、触れている、嗅いでいる、噛みこんでいる、思っているなどの、感覚器官の働きのようなことは想像しても無意味である。それ自体が誰彼のみえない力なのだからと、誰彼を分析することは諦めている。あるがままに受け止めるしかない。でもとにかく、私と一体であることにはかわりはない。厄介だが、毎日そうして生きている。自分一人ではない私が誰彼と一緒に生きている。誰彼は自分の影だということもできるかもしれない。心の中の根っこにある胚胎だと言えるかもしれない。

2019年8月17日 (土)

予感と環境

  当たり前に,死が近くにやってきている年齢人ると、死との親近感が自然と醸成される。これは不思議でもなんでもなくて至極自然な現象である。人によっては自分の死の日時まで周りに告げることがある。そういうことを話で聞いたことがある。親兄弟の間では普通のことであったようである。更にまた、四季の迫った親近者が遠くから訪ねて来る。その姿を発揮にと命に焼き付ける親近者もいる。私にもその体験がある。いまっでもその時の伯母の死が箍はっきりと目に焼き付いている。
 日常生活では予感が大きな働きをしている。人はそれを見に感じないで過ごしてしまうことが多い。せっかくの知らせを無駄にしてしまっているのである。でも、そのことすら気付いていない。騒々しく、我は我はで動き回っている。予感や予示のあることを全く否定してしまっている人が多い。社会という騒音のなかに生きているからであろう。静かに自分を感じる心の余裕を失っているのである。若さがその原因であることが多い。また、もって生まれた鈍感な体質というものもある。人はいかようにつくられているのであろうか。そのことを思わざるを得ないような事件に出遭うこともある。降りかかったはずの不幸を未然に避けることができた人もいる。人それぞれであるが、予感によって予示されるのが本来の生き物の姿である。それが妨げられている環境に問題がある。
 自然の環境には生き物を育てる力が備わっている。それが生き物に予感を与え何事かを予示する働きをしている。だが、人間はその自然の働きを混濁させたり消滅させたりする働きを誘発する生き方を選択する。社会環境と言われるものはその禍の根源になっている。

2019年8月16日 (金)

 公務員に望むこと

  公務員にしてほしい仕事を結果から言えば、公的医療保険、公的社会保険、公的年金の三つの制度を国民のために守ってもらうことである。政治的な主義・主張とか、社会保障の理念とか、むつかしいことは、詭弁も含めて、理解するのはむつかしいから、結果だけでしてほしい。この国の国民が幸福であるためにはこの三つの制度を、国民の公平な生活の維持のために制度設計し、わかりやすく実施してもらうことが不可欠である。私はそう思っている。国民が享受できる最低の生活保障は国民と国家の発展のために不可欠である。
 これがうまくできれば、少子化を脱却できるかもしれない。安心して子供を育てられる国になれば、若者たちに明るい顔が戻って来るだろう。今、若者たちは、原因不明のような焦燥感に襲われているように見える。不安なのだ、安心して人並みの生活ができる条件が社会に整うことを心から願っているように思う。

2019年8月15日 (木)

敗戦と今後

  今日は、8月15日、終戦記念日である。だが戦後74年経っているので、戦争を体験した人は少なくなっている。だから、戦争がどんなものであったかの実感を身に着けている人は少ない。当時、数え年18歳で現役だった私も今は92歳である。戦争体験を共有しない世代とは戦争に対する考え方も感じ方もまったく違っている。だからまた、戦争が起きる可能性が高くなっている。国際紛争を戦争で片づけるという思想と心情が復活している良いである。現に、アメリカは、第2次世界戦争後も休みなく戦争に世界中でかかわっている。ニッポンもイラクに派兵させられた。
 今現在、世界における地域紛争のタネは尽きない。米中の貿易戦争がそれに重なっている。最近はパキスタンとインドの間でカシミールの自治権を巡る問題が起きている。日韓の経済紛争同然の状態も厄介である。北朝鮮はロケット砲の発射を繰り返している。トランプ大統領はそれを黙認している。日韓米の軍事協力体制にもひびが入ている。韓国政権の反日政策がこのまま継続すると更に大きな日韓の危機が生まれるであろう。この亀裂の修復いかんでは更に複雑な困難が生まれるであろう。
 

 

 

2019年8月14日 (水)

自然に漂う人間

   また、しっかりしよう。繰り返し繰り返ししっかりしよう。老年にはそれが毎日である。それができれば、また明日がある。自分を励まさないと毎日が過ごせない。それがリズムになってまいにちがある。平和な時代の老人はそれで過ごせる。それがありがたい。そう思って、ほかには欲を持たない。命をつなげ食事が満足にできれがそれでいい。健康だから食事が楽しく戴ける。
 どこまでも持久戦である。人生という旅にはそれを導く何かがある。それによって生かされている。そう思わされることが多々ある。毎日何らかの災難が降りかかっているのであるが、それを知らぬ間に切り抜けている。そのことに気付くか気づかないかで生き方が変わっているが、それすら気付かないのが日常のことである。この鈍感さが人間を長生きせている。凡庸とはそうしたことを指すのであろう。
 気が付けば、自分は大きな時代の波のなかを漂っている。自分の自由にならない何者かの力が時代の波を創っている。人間の主体性とは、そうした中で人間が時に感じさせられる感覚によって、いまさらのように目覚める生存意識である。生きるためにもがくことになる。それが争いを生んでいる。お互いに争いながら自分だけが生き残ろうとする。自然の波は祖プして人間のあがきを呑み込むように揺れている。

2019年8月13日 (火)

思い出と現実

   思い浮かばないことは思い出そうとしなくてもいい。いずれ時が来ると先方からやって来る。思い出とはそういうものである。空に浮いているような思い出はなつかしい。こういう思いでは楽しい。だが、それとはまったくだが、それとは全く違った苦い思い出、苦しい思いで、無念な思い出などに悩まされるときもあるだろう。そういう思いでが襲ってくるのは体調や心の具合が悪い時である。やはり健康がすべてに影響する。
 戦時や戦後のことの思いでは、話したくない人が多い。それは無念な思いでだからであろう。生死をさまようように生きたころのことは、今現在のような平和な時代に生きている人に話してもわかってもらえるものではない。時代が違うとは恐ろしいことなのである。人は時代の波に運ばれている。それがっきりと現れてくるのは、世代の違いと言われるものであって、生きている環境の変化が人の世代を区切っている。
 現在、我々はコンピューター・サイエンス、 情報通信技術の異常な発展に媒介された生活環境の中にあって、生き方そのものの変更を迫られている。この社会のインフラの変化に乗ってすべての科学技術も進歩している。異常なほどの科学技術の変化が人間そのものの在り方の変更を迫っている。中でも、医療科学の分野での進歩は、生殖、再生、移植などの医療技術の進歩で、不老不死に迫っているようである。夢が現実になりつつあると言っていいだろうか。 

2019年8月11日 (日)

根性と技量

  根性でやり抜くという。よろしい。それでやれるならばそれ以上のことはない。根性が世話できる技量があればのことであるが。技量があってもそれだけでは何も生まれない。技量をまとめるものが要る。そのまとめ役を買って出るのが根性である。技量は根性に支えられてこそものにななると言われる。だが、曲がった根性ではだめなのである。さもしい根性では最悪である。技量を磨くのもいいが、根性も鍛えなくてなならない。
 何をもって根性というのだろうか。性根の座った人間だろいう言葉があって、根性は性根を逆さにしたようなものだといえばわかるだろうか。根の性格というならば、人間の根とは何だろうかと尋ねたくなる。性格の根だと言われてみれば、性格の根底にあるものを探したくなる。要するに、根性が据わっているとは、少々のことにはびくともしないで堂々と立ちまわるということを指しているのであろうか。そうだとすれば、根性は人間の基礎石のようなものであろう。礎石がしっかり座って入ればその上の柱はぐらつかない。このように連想することで人間の根性を理解していいのであろうか。
 根性と性格は親と子のようなものであろうか。根性がしっかりしていれば性格も誤りがないという連想が成り立つならば、この両者の親子関係に納得がゆくであろう。よい技量を持った人間はよい根性と性格に導かれている。

 

 

ヒートする自然と人間社会

  新しい風が吹く。天空はもはや秋である。秋空の気配尾を感じながら真夏の気候を体験している。35度以上が全国並みという暑さである。私が子供の頃であった昭和10年代には、真夏でも30度を超える暑さはなかったと記憶している。もちろん、普通の民家には冷房装置はなくて、扇風機と団扇で暑さをしのいでいた。冷蔵庫も氷を入れる箱であった。その扉があか(銅)張りであったのを覚えている。それもない家も多かった。それでも凌げたのである。
 そのころから80年以上が経っている。敗戦後74年の年である現在、我々は昔を知らない人達と一緒に暮らしているので、世代間格差以上のものを感じている。通常、世代は10年で区切るようであるから、8世代も遠い昔にわれわれ90歳代のものは幼少年期を過ごしたのである。お蔭で戦争に駆り出されて多くの少青年、壮年の男子が戦死した。それだけではない。空襲、原爆で「住民」そのものが殺された。都市、山村ですら、灰燼に帰した。
 戦後築かれた「平和」を壊したはならない。平和だったから戦後の今日がある。だが、今再び戦争の気配がたちこめはじめている。戦争と平和を繰り返して築かれてきた人間社会の歴史が繰り返されようとしている。これを防ぐ人智を持った指導者が今求められている。自然のヒートと人間社会のヒートが重なれば地獄である。

2019年8月10日 (土)

霊感と霊視

  霊視や霊感は、体験しないとわからない。いくら説明を受けても理解できるものではない。だが、それらを体験した人には真実そのものである。夢は多くの人が経験しているから夢の存在を疑う人はいないだろう。だが、夢うつつというのは信用されない。それは現実ではないと言われる。果たしてそうだろうか。正夢ということがある。亡くなった人が夢に出て来たということはよく聞く話である。夢枕という言葉もあるように夢は人に安らぎを与えて呉れる。それでいて厳しい。夢枕に立つのはやさしいモノばかりとは限らない。うなされるということがある。夢枕に立つたものは、霊視の先立ちであったかもしれない。霊視する本体は、霊感を誘ってやって来る。「ぞっとする」という不思議な感じがそれである。
 人は体質によってモノの感じ方が違っている。世に言う、敏感と鈍感という言葉がそれを表現している。だが、それだけではない何者かが霊感を誘導する働きを持っている。そうとしか思えないことが多々ある。この体験は非常に個別的なモノであるから一般論では説明できない。霊視に至っては更に深遠なモノがありそうである。それは本当に個人的な体験なのであろう。
 

夢中と熱狂

 人は何かに「夢中になる」ときがある。まるで夢のなかを生きているようにただ一つのことを追求してる。この言葉はそういう状態をいうのである。他のことは何一つ気持ちの中に入らない。通常の状態であればこれを「専念している」と表現するのであろう。夢中は専念を超えている。この先にあるのは恍惚である。そうであれば、それは本人の無上の満足を体が表現している。自分自身の心の中に満足が結晶しているのである。
 これと全く正反対なのが熱狂である。熱狂は自分の喜びを当たり四方に投げ飛ばすように本人の心の熱気を発散し狂おしい様態になる。これは他人に向かって放たれた異常な心理である。たとえば、ライブに狂う若者たちの姿がそれを実写している。何はばかることなく自分の心の喜びを発散している。
 あなたは、どちらのタイプなのか。研究熱心なひと、遊びに夢中になる人なのか、ライブで熱狂したりスポーツ競技の観戦で熱狂するタイプなのか。大まかには、内向きタイプの人と外向きタイプの人に分けられる。自己満足に喜びを感じるのか、他人との共感に満足を発見するのか。

 

2019年8月 9日 (金)

頭と顔

 頭の前面に顔があるのか、顔の上に頭があるのか。前頭部と後頭部の間に収まるように顔がある。顔は、目鼻立ち、口元、頬,そして何よりも両眼、まつげ、ひたいといった部位に分かれている。頭の良さは行動に現れる。顔の良しあしは人相で判断される。
 頭が高いと嫌われる。貧相な顔では損をする。頭脳明晰、眉目秀麗が人の望みである。だがこの二つは、持って生まれたものであるからその人ではどうにもできない。教育で補い、美容整形で補強するという程度のことしかできないのであろうか。決め手になるのは心の持ち方であると言われる。心が身体の不備を補ってくれる。賢くなくても人柄のよい人間、美しくなくても気持ちのいいひとに心が変えてくれる。そうなるように心を鍛えるのが教育である。
 その教育の最たるものが仏教である。他の宗教については、憎しみを高ぶらせる教えもあるらしいと聞くが、それは逆効果である。テロに走らせるようでは何のための教えなのか理解できない。人を憎しみに走らせると悪智慧が活発になり憎しみが高じて面相も恐ろしくなる。顔は心の表れである。

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