2018年10月21日 (日)

生命誕生の実験は成功するのか

 同書(307頁)に次の記載がある。

 「ダーウィンは、『温かい小さな池』の中で起きた化学プロセスが生きた物質の誕生につながったのではないかと提唱した。・・・この推測に基づいて組み立てられた正式な科学理論は、・・ オバーリン=ホールデン仮説と呼ばれている。・・・ (20世紀初頭の)この説によれば、初期の地球の大気には水素やメタンや水蒸気が豊富に含まれており、それに稲妻や太陽放射や火山の熱が作用して単純な有機化合物の混合物が生成したという。そしてそれらの化合物が原始の海に蓄積し、温かく希薄な有機化合物のスープが何百万年も水中を漂った末に、イスアの泥火山のような場所の上に流れてきた。さらに偶然にもそれらの化合物が結合し、やがて、自己複製能力という並外れた性質を持つ新たな分子が出来てきたという。・・ ホ-ルデンとオバーリンは、この『原初の複製体』の出現が鍵となって、我々の知る生命の誕生につながったと提唱した。」(307頁)。

 「1950年代以降、ミラー=ユーリーの実験(ミラーは、初期の地球で生命が誕生したと気の条件を再現するために、瓶の中に海の代わりとしてみずを入れ、その上に、原始大気の中に存在していた考える気体、メタン、水素、アンモニア、水蒸気を入れた。そして稲妻の代わりに、この混合物の中で電気スパークを発生させた。するとミラーも科学界全体も驚いたことに、この原始大気のンかでスパークをわずか一週間発生させただけで、瓶の中にたんぱく質の構成部品であるアミノ酸がかなりの量で出井することが分かった。)は、何十人もの科学者によってあらゆる方法で繰り返された。様々な混合物や気体やエネルギー源が使われ、アミノ酸だけではなく,糖や、さらには少量の核酸までもが生成した。しかし半世紀以上経っいまでも、実験室でつくられた原始のスープからオバーリンとホールデンの言う原始の複製体が生成したことは一度もない。」(310頁)。

 「

生命はグリーンランドの泥の中で初めて緑色を帯びた?

 生命は物質から生まれるという見方をしているのが唯物的生命観だと言われている。そのことを「量子力学で生命の謎を解く」(水谷淳訳)でいろいろと勉強させてもらっている。

 同書(305頁)には、グリ-ンランドのトリニダート島にある現代の泥火山の写真が掲げてあって、「果たして、最初の生命も、このような泥火山から湧きだして、イスア(地名)の緑色岩に痕跡を残したのだろうか?」と書いてある。続いて、

 「決定的な証拠はないながらも少なからぬ人は、イスアの同位体ダーターは地球最初の生命のしょうこであり、イスアの泥火山では熱水噴出口から温かいアルカリ性の水が噴き出して、生命の出現に理想的な環境を作り出していたはずだと考えている。その水には無機炭酸塩が大量に溶け込んでおり、噴出口から突き出したヘビのような多孔質の蛇紋石に空いた何十億という穴が、微量の有機化合物を濃縮して安定化させる微小環境になっていたのかもしれない。もしかしたら生命は本当に、グリーンランドの泥の中で初めて緑色を帯びたのかもしれない。しかしどうやって?」とある(306頁)。

 こうした記事には我々の生命についての勉強のきっかけがあるように思う。今は、宇宙にも人間のような生命体がいるかという関心が多くの人を宇宙に引き寄せているのではないだろうか。原始の生命についてのなにかが分かれば今現在の生命体との比較も可能になるだろう。生命は物資の化合物であるということが科学によって実証される日が本当に来るのだろうか。そういう思いを重ねてこの本を読んでいる。

2018年10月20日 (土)

河合隼雄著「無意識の構造」に見る「心」の断片

 心とは、広辞苑を覗くと驚くことにありとあらゆる意味が並んでいる。それほどに、心は大切なものであるらしい。

 本来の意味は、人間の内臓の通称であったものが、人間の精神作用のもとになるもの、またはその作用と意味に転じたと言われ、①知識、感情、意志の総体。②思慮,おもわく。⓷気持ち、心持。④思いやり、情け。⑤情趣を解する感性。⑥望み、こころざし。⑦特別な考え。などの意味を持つものとして使われてきたようである。比喩的には、①おもむき、風情(ふぜい)。②事情。⓷趣向,くふう。④意味。⑤わけ。⑥(歌謡用語)内容。歌の主題・題材・発想などをいう。更に、ものを指して、①心臓、胸、むなさき。②物の中心を指す言葉として使われてきたという。

 このように使い習わされてきた言葉であるということから判じると、大切なものを指す言葉であったということが分かる。心なしか非情な思いが先走るような状況が合わせて思い浮かぶほどに切ない言葉である。

 河合隼雄著「無意識の構造」(中公新書481)では、

 Ⅰ無意識へのアプローチの3項、心の構造(27ページ以下)で心の層構造の項目を設け、自我を頂点として、意識、個人的無意識を配し、その下に、家族的無意識、文化的無意識を包摂す普遍的無意識層を配置した「心の構造」図を掲げている(37頁)。
  説明して曰く。「普遍的無意識は、個人的に獲得されたものではなく、生来的なもので、人類一般に普遍的なものである。このような人類一般に共通のものに至るまでに、ある家族に特徴的な家族的無意識とか、ある文化圏に共通に存在する文化的無意識などを考えることもできる。ユングはこれらを総称して、普遍的無意識と呼んでいることもある(37頁)。
 

 次いで、Ⅱイメージの世界の2項、心的エネルギーでは、「エネルギーは変遷する」という見出しのもとで、心的エネルギーの流れ図(54頁)を掲げ、先に示した心の構造図の中で、心的エネルギーが意識域と無意識域を渡って進行し、退行することを示し、無意識域のボトムで身体的エネルギーが退行し進行する関係にあることを示している。心的エネルギーが自我に向かって進行すれば身体的エネルギーは退行し、心的エネルギーが自我から退行すれば身体的エネルギーが自我に向かって進行する関係にあることを示している。
この図からみれば、心と身体は自我に対して相反する流れをとることを示している。すなわち、心的エネルギーが高まると身体的エネルギーは弛緩し、心的エネルギーが弛緩すれば身体的エネルギーは緊張する関係にあることが示されている。

神仏と溶け合っていた時代は戻て来ないのか

 人は神を怖れ佛にはすがる。この違いをどう理解するのか。そもそも神とは畏れおおいか、恐ろしいか、祟りをもたらすかといった観念で受け入れられていることが多いと思う。人間を超越した何者かで、その存在は姿かたちではなく、眼には見えないが、肌身に感じられるという存在であるように思われる。その感じは「神々(こうごう)しい」という言葉で表現されている。
 我々多神教徒には、神々が至るところにおわしますという感覚がある。八百万の神とはそのことを指している。そして神は、何よりも自然そのもののに宿っているという信仰がある。あるいは自然そのものが神であると信じられている。自然の中に神が降り立っているという信仰がある。神は人間を超越した存在であるという信仰と同時に、人もまた死後に神になるという信仰がある。生前の怒りが死後祟りとなって襲ってこないように祀られたのが菅原の道真であると言われているが、これが神信仰の本質をよく表しているのかもしれない。神と祟りが一対になっている。自然の神にも同じような受け止め方がある。自然を汚してはいけないという教えがあって、それを犯すと祟りがあると言われている。神は「畏れおおい」存在なのである。
 

 それに比べると、佛は慈悲が本領とされている。神を父とすれば佛は母のようである。実際のそのような受け止め方で神棚と仏壇が各家庭に備えられていたのである。家の中の神でなじみの深いのがかまどの近くに備えられた荒神様のお社(やしろ)であった。家というのはこのような神様と仏様に守れれて家族が育ってきた住処(すみか)であった。以前は家には井戸があったので水神様も祀られていた。
 このような家族の生活習慣を村社会にまで広げたところに氏神様があった。氏神を祀る神社が村の人々の心のよりどころであったのである。それと共に地域を守る土地の神様の社もあって、その土地の住民を守っていただいたのである。農村地帯では今も、豊作を祝い感謝する秋祭りが地域ごとに行われている。
 日本人は、このような生き方を生活習慣として育ってきたのであるから、神も仏もないというようなことは口にしなかったものである。そのようなことを口にするのは恥ずかしいことであった。だが、残念ながら敗戦後のこの国ではそのような生活習慣や村落のたたずまいは失われてきたようである。神も仏も存在しないという確信が人々の心に住み着くようになった。ひいては、日本人の魂が失われているような生き方が目立つようになったのである。

 科学が進歩して、神仏などいないと公言したはばからないインテリジェントな人々が増えている。おりしも、21世紀の今は、量子力学で解明される宇宙の知識が人々に無神論の正当性を確信させるような情勢になっているようである。果たしてそれが正当なのかどうかはこれからの研究の成果に懸かっているようである。その謎を解く強力な武器が、量子コンピューターであるといわれている。神・佛が退場した後に何者が登場するのだろうか。

2018年10月19日 (金)

精神と肉体と宇宙の素粒子

 精神と肉体と宇宙の素粒子

精神科、神経科、心療内科と言った「心」の医療分野と在来からの内科、外科、耳鼻科、歯科などの体を対象にした診療科との違いに表れているようなソフトとハードの違いのようなものに注目したい。心、魂、意識の不具合が対象であるような医療と身体が対象であるものとには自ずからの違いがある。

人間を物体として扱うか精神的存在として扱うかの分かれ道に立たされた時に人はどのように思案すればいいのか。心と体はつながっているから一体的なもので肉体を切り刻むような医療でめちゃめちゃにされてはたまらない。心を忘れてそれは存在しないというように唯物的な医療を施されると治る病気も治らないのではないか。「手術は成功しました」と医師が宣言しているのに患者は死んだというケースが多々ある。これでは医療は何のためにあるのかわからない。それでも医者は平然としているのだから患者とその家族は無念な思いをするままに放置されたことになる。

どうしてこういうことが起きるのか。その残酷さを医師はどのように思っているのか。患者の命を救うことができなかったのに、患者は死んでしまったのに、医療に誤りはなかった成功したというのだから何かおかしい。そう思はざるを得ない。その「何か」を今私は追い求めている。患者の生命を維持することと、疾患を治すことが一つになっていない。この二つが別々に扱われている。はなはだしくは、命の証しである精神の存在が無視されている。精神は、心を左右し、意識を働かせ、魂を揺さぶる目に見えない実体である。これを無視した医療では、肉体そのものにこのような働きが備わっていて、それを肉体の機能ととらえているのではないか。肉体とは別に精神があるとは信じていない。精神と肉体という二元論を認めない医療が定着しているのであれば、精神科、神経科、心療内科も肉体の機能回復のための医療と観念されていることになる。

このようなアプローチとは全く逆に、精神を正しくすれば肉体の病を治るという教えがこれまでの通説であった。魂を鍛えて強い人間を作る。心を正してまともな人間になる。意識を正常に保って健康に生きると言った教えが巷間に流布していた。今もそれは生きているのではないか。いかに傲慢な医師であってもそれは否定しないであろう。こうした精神の鍛錬が強い人間を作ってきたのが人間の歴史である。精神修養が強健な肉体をつくる道筋として尊重されてきたのである。それ以上に人間そのものをつくる修業として受け入れられてきたのである。その役割を果たしてきたのが精神の鍛練、宗教による精神の浄化、修験道などによる心の鍛錬、魂を神秘の世界に誘う瞑想などの自己浄化であった。

こうした観念に神仏が結びつくときに、あからさまな拒否を示すのが無神論である。神・佛は架空の存在で実態が認められないという。確かに神・佛を自分の目で見た者はいない。観念上の存在であるとしか言いようがないというのが常識の範囲であろう。だがその疑念を超えて神事・仏事が人間社会の根底にあって作用している。宗教的世界観がそれである。

 20世紀末から21世紀の現在にかけて、この宗教的世界観に変わるかのように台頭してきたのが新しい科学的思考による宇宙観である。その中心にあるのが量子力学であると見られている。宇宙は素粒子の場であるという研究成果が出現しその動きが量子力学で説かれている。新佛の実体がこの宇宙の素粒子であったということになれば科学の研究成果と一致することになるのではなかろうか。だがいまだそのような話は聞いていない。オカルト的には素粒子が神であると説かれているらしいが、まだ科学者によっては認知されていないようである。

 

2018年10月18日 (木)

量子力学はどこまで生命に迫るのか

 心、魂、意識は最も悩ましい。科学で説けるのか。宗教の世界に閉じ込められているのか。科学者は当然のように科学で解明すべきものと考えているだろう。その場合に量子力学ですべてを解こうとする動きも見られたようであるが、さすがにそれは無理という意見もあったようである。

 科学で説くと言っても科学をスピリチュアル・サイエンス(精神科学あるいは心霊科学)とフィジカル・サイエンス(物理化学あるいは物質科学)にわけて考える科学二元論もある。村上・矢作著「神(サムシンググレート)と見えない世界」(祥伝社新書308。2015)では二元論が取られている。だが、一方では科学一元論があって、心霊とか神秘とかを絶対認めない唯物思想の科学がある。この立場では物質がすべてである。「量子力学で生命の謎を解く」(ジム・ある=カリーリ、ジョンジョジョー・マクファデン著、水谷淳訳、SB Creative.2015,2018)では、 
 「おそらくほとんどの人は、心や魂や意識は物理的な身体は別物だとする『二元論』の考え方を、何らかの形で受け入れていると思う。しかし二〇世紀の科学界では二元論は支持を失い、今ではほとんどの神経生物学者は、心と体は同じ一つのものだとする『一元論」の考え方のほうを好んでいる。たとえば、神経科学者のマルセル・キンズブルンは、『意識があるというのは、神経回路がある特定の相互機能状態にあるようなものだ」と主張している。」、
 「きわめて異論が多いが、魅力的なある主張に焦点を絞ることとする。それは、意識は量子力学的現象であるとする説だ。中でも最も有名なのは、オックスフオード大学の数学者ロジャー・ベンローズが一九八九年の著書『皇帝の新しい心』の中で説いた、人間の心は量子コンピューターだという主張である。」(以上280頁)。

 「脳の中で量子計算が行われていると主張するためには、量子コンピューターは古典的コンピューターよりもゲーデル的な命題を証明する能力が高くなければならないが、そのような証拠はまったくないし、ほとんどの研究者はそうではないと考えている。」、
 「脳の中では量子力学は何の役割も果たしていないのだろうか? 身体のほかの部分ではあれほど量子作用が起きていながら、我々の思考は古典世界の蒸気機関車のようなプロセスだけで進められているのだろうか? おそらくそうではないだろう。最近の研究によると、量子力学は確かに心のしくみに重要な役割を果たしているらしいのだ。」(以上292頁)。

 意識と心についてはこのようは物理科学的な説明が浸透してきてるようであるが、魂についてはまだそのような傾向はみられていないようである。唯物的一元論ですべてが説明しつくされるときはいつ来るのだろうか。魂と肉体の二元論の軌道の上で、両者の一体化が宗教では解かれている。心と体は生命の表裏である。生と死も精霊の二つの形である。生死一如と言われる。

2018年10月13日 (土)

宇宙の謎を解明する科学研究が狙われている。

 人間だけが生物じゃない。それこそ、八百万の生き物が地球に生息している。これらは人間がつくったモノではない。神々から命をもらった生き物である。そう思わないとこれらの生き物が地球に生息している根拠が分からない。人間はこれらの生き物のなかの一つである。
 

 生命とは何かと自問する時にいつも出てくるのはこの事実である。森羅万象のなかのほんの一つが人間である。それが万物の霊長だと自負して他の生物を痛めつけている。生殺与奪をほしいままにして人間は生きている。トランプ大統領の「アメリカ第一」はこれをそのままに引き写したものである。その赤裸々さにはウソ隠しがない。あるとすればどれだけむごいことをするかを事前に明かさないことである。アメリカ人は人類の霊長であると言っているのに等しい。かってこの地位はイギリス人が占めていた。あの大航海時代がその証である。スペイン、ポルトガル、オランダがこれに続いていた。昔々その昔,大航海時代以前には騎馬集団のモンゴールが世界を制覇した。地上の支配者から海上の支配者へと覇者が交代して世界の地図が書き換えられたのである。今、アメリカは空爆を手段に世界を睥睨している。まさに空の支配者である。

 時代は動いている。これから先は宇宙を支配するものが世界の覇者になる。これはもう誰の目にも明らかであるからあえて言う必要もないのだが、宇宙科学の勝者にその覇権が落ちるという事実に注目したい。この分野では米英仏と中露の対立が歴然としているのだが、米露が宇宙基地を共同にしている事実がある。中国は単独で宇宙基地を建設している。この辺りが微妙である。

 宇宙を制覇するという野望があったとしても、その前に、宇宙の神秘を解き明かす必要がある。今はそれを競っているような時期であろう。宇宙の制覇にかかわる一切の科学が動員されている。科学者は真理の探究に単純に熱を上げているのであろうか。科学の成果の利用を虎視眈々と狙っている覇者は彼らを巧みに利用する。科学研究の戦略的目標と手段がそこで用意される。国家が科学を取り込むのである。いや、国家によって科学研究が推進されるから科学の発展が期待されるのである。科学が純粋に人類の役に立つことを狙って研究するという科学者の姿勢とそれを利用しようとする覇者との駆け引きが科学研究を動かしている。須田桃子著の「合成生物学の衝撃」(文芸春秋社刊)ではその事実を克明に伝えている。

宇宙の神秘と人造人間の対決はあるのか

 宇宙の神秘を解く。これが科学者の単なる好奇心からの、あるいは学問的探究心からの夢であれば楽しいのだが、宇宙の軍事利用に向けての国家的野望からはっしているとすれば由々しいことである。この両者が合体しているのが現状である。そう思って間違いはない。トランプ氏が宇宙軍を創設すると公言したほどに自明のことになっている。
 人造人間の創造も合成生物学の世界ではすでに進行しているという。その主な目的が軍事利用にあるとか宇宙時代の人間の対応能力の向上にあるとか書かれているがこのれも思えば恐ろしいことである。何がおそろしいというと、生物の世界を人間の都合に合わせて変更することがどのような結果を招くか見えていないことである。

 人間の野望がここまで来てしまったことに驚くとともに科学の際限のない進化に対する恐怖が伴っている。人によっては恐怖ではなく歓喜であるかもしれないがその行く末が分かっていないと不安である。これまで、人間と神仏あるいは宇宙の秘密はすみわけしていたがその仕切りを壊して宇宙の神秘と人間が直接対決している。現在の宇宙基地はそのほんの始まりであるにすぎない。其れすら人間同士の、国家同士の覇権争いで混沌とした未来が待ち構えている。人間の英知と宇宙の神秘が棲み分ける役割を果たしていたのが神仏であったがそれさえも危機に瀕しているとみて誤りはないほどに人間がその力を誇示しようとしている。

 このような覇権的な人間の動きとは正反対に、神秘に浸かって、宇宙と人間の一体感を身体的にも感得する世界がある。これは宇宙誕生以前からの生命の存在を自らの生命の根源であると確信している人間の間に現存している。宇宙の生命そのものが自分の生命であると受け止めて敬虔な人生を送ることによろこびを感じている。それが信仰の世界であってあえて宇宙を解剖しようなどとはしない。宇宙の全体像からなるすべての生物の生命を分有しているという確信に生きている。

 科学と宗教が相補うのか対立するのか。二者択一であるという人間が無神論を唱えている。合成生物学の世界ではそのような人間が覇権を掌握している。「神はいない」という確信のもとで人間が宇宙の神秘の扉を壊し人間が宇宙を作り変えるという信念で行動している。合成生物学は際限のない無神論の領域を拡大しようとしている。宇宙はそれほどに生易しいものであるのか。人間は宇宙の生物のなかの一つの粒子(量子)ではないのか。量子の不可解な行動を知った今、人間は生命の謎に戸惑っているのではないか。人間の科学的探究心に揺らぎが芽生えても不思議ではないであろう。

 唯物論に徹した現在の科学志向で宇宙のすべて、生命の神秘が、すべて解明されるであろうか。これが今現在の最大最高の疑問である。

人間社会の転換期の様相が見えてきた

 今現在は、政治、経済,学術など人間社会の基本的な事項が転換期にある。これまでの発展が、20世紀末で終わりを告げたというか、とん挫したというか、転機を迎えた。やはり、9・11がそのサインだったようである。アメリカが国内初のテロでシンボルともいえるタワーを自爆攻撃された。あの光景は見る者の目を疑わせたのである。それから、三年後の2003年にイラク戦争がアメリカの言いがかりで、復讐のように勃発した。大量破壊兵器があると言ったが、結局はなかった。復讐のための言いがかりだったことが明らかになったが、すべては既に終わった後である。それから中東地域はどの沼に変わった。イスラム系のテロリストが蜂起したのである。いまもその痕跡が残っているだけではなしに、中東不安定の原因となっている。しかもアメリカは平和の旗手としての信用を失い。シリアではロシアが進出を果たしている。アサドとプーチンの連携が生まれている。トルコもアメリカとの関係があやしくなっている。こうしたことが、世界政治の転機をもたらしていると思っていた矢先に、トランプ大統領の登場で、アメリカ一国主義を宣言し、もはやアメリカは世界平和の推進も維持も放棄した。

 それに米中貿易戦争が始まって、世界経済も穏やかではない。グローバリズムを放棄したトランプ政権のもとでは19世紀に世界が戻ったという識者の意見も出ている。世界との協調を拒否したアメリカに世界の信頼はない。経済も転機を迎えている。

 その背後に、科学技術の質的な転換がある.20世紀までの科学技術を完全に凌駕した新しい科学の時代が急速に発展している。人工知能、人工生命の誕生、生殖・再生・移植の三分野で新しい医療技術が誕生している。これらは人間のつくり替えに挑戦している。人間そのものが転機を迎えているのである。

 総じて、人間の倫理観への激しい挑戦が始まったのである。人間とは一体何かという問いが生まれている。地球に住んでいるはずの人間が宇宙に生存の場を求めている。宇宙軍をつくる動きが21世紀の列強の競争をあおっている。中露、米英仏が覇権を競っているのが現状であるとみられる。

2018年10月12日 (金)

量子論が描く宇宙観を覗く

 自然と社会を串刺しにした宇宙の串。その軸の回転で宇宙の景色が変わる。自然を支えているのは宗教、社会を支えているのは科学。自然は宗教的神秘の中で時空を超える存在となっている。人間は科学にしがみついて社会を構築している。だが人々は、自然の謎を明らかにするのが科学であると信じているし、社会を収める哲理が宗教であると思っていた時代があった。それも真だが、その逆がいま襲い掛かっている。

 社会を規律するのが自然科学であって、自然がもたらすものに意味を与えるのが社会科学である。そういう理解が通用する時代になっている。自然の法則のもとに社会が成り立ち、自然は社会の力によって変容し存在を脅かされている。人間と自然の葛藤は卍のように絡んでいる。自然が人間をはぐくみ、人間が自然を支えた時代は去って、人間が自然を破壊し、自然が人間に襲い掛かっている。そのすべてを宇宙が包み込んでいる。宇宙は自然と人間をひっくるめて異次元の宇宙に変転させている。

巨大なるものが微小であり微小なるものが巨大であるという存在の姿が宇宙の真実である。存在は瞬間にして変化しお互いに他者となる。すべては変化して無限に拡大する。自然と人間を操る宇宙に真の生命が宿っている。こういう知識が人間の間に広がっている。量子論、量子力学、量子生物学、合成生物学など今、宇宙を解剖する科学が台頭し宗教の宇宙観にも影響を与えている。ひいては、人間そのものの本質の理解にも影響し現象としての人間の生命の解釈に新しい光が当たっている。人間がこれまで、神や佛と言い慣わしてきたものの正体が明らかになるかもしれない。そのような期待をもって今、新しい時代の到来に期待をかけている。

 

 

 

 

 

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