2021年1月 3日 (日)

道を創る

 「道」と書いて何と読むといわれると、誰だって「ミチ」というだろうか。中には「ドウ」という人もいるだろう。地図で道を探すときには、ミチをドウということが多い。東海道、中山道は有名である。人の精神を鍛える時にも、道徳、道理にかなった行動を求めるという。芸術でも、茶道、華道という。ミチという表現は、「ミチを歩く」というよう様な時に「道」を歩くと書いて使われることがある。

 道を教えるという教育では、道徳や道理を説くように、道は観念、思考、理念、美観など、優れた人間の思考や感性に適ったものとして受け入れられている。街道はそれに倣って表現されているのであろうか。武道は武術の何をさして表現されているのだろうか。街道は物理的な道を指しているが、武道は武術の精神的な心得を指しているのであろう。

 人間、人生の最後に何を創ればよいかと問われた時に、どのような答えが浮かぶだろうか。道を創るのが最高だと思わないでしょうか。これはドーロという意味での物理的な道です。山村僻地で一番欲しいものはドーロである。このドーロは街道のように偉大なものではないが不便を解消する親しみのある道である。全国版が街道であればこれは僻地の山道であろう。でもその価値は其処に住む人たちにとって街道にも劣らない。

独断と勉強

   勉強しないと独断に走る。わかったつもりで話したり実行したりする。自分に自信がある。その源は過去からの学習であって自分で始めた勉強ではないことが多い。これが倣う、慣れる、といわれている自然体での学習である。この国では教師が弟子に何も教えないで、見よう見まねで覚えることを当たり前としている。見てわからないことは聞いてもわからないという。

 教科書で勉強するのと実地で学ぶのとはかなり違っている。教科書通りに事を運ぶのがロボットである。ロボットを動かせない教科書は役に立たない。最近はこの方向に何事も進行している。AI ロボットはその典型であろう。其処までの発達が今のところのAI の特色であろう。だがそれを乗り越えて人間らしい判断や選択をするとなると人間の気まぐれ、迷い、好き嫌いも取り入れねばならない。実地で学ぶというのはこのようなタイプの教育である。

 独断と偏見を殺すのは実地教育である。知性や理性には文句は言えても実地の経験には従うしかない。山登りの経験があればこのことは容易にわかる。地図は役に立たなくても勘が働くことで急場をしのげる。独断は教科書も実地経験も退けて自分の見識や感情で論理回路を創ってしまうことから生まれる。そのリスクを少なくするのが勉強である。勘が働くのは広い心の海であって祠のような狭いところでは独断に陥る危険がある。そうならないで心を開き叡智を授かるのが行者であろう。

2021年1月 2日 (土)

オンリーワンかナンバーワンか

   よく耳にする言葉に、あの人はなんばーワンだというのがあるだろう。これはあるものが、他のものの頂点に立つということを表現している。皆そのために競争する。一等賞をとるということである。これとは違った表現に、おんりーワンというのがある。これは唯一無二の存在であることである。オンリーワンが奇人であれば、ナンバーワンは常人である。そういう見方もできるだろう。

 ビジネスの世界で、ナンバーワン競争に賭けるか、競争相手のいなオンリーワンとして存在するか。これは経営者の経営哲学の選択の問題である。出店の差別化でこうした問題を抱える経営者がいる。実際にそういう経営者と出遭った。誰でも何処でも買えるものであればオンリーワンはありえない。その店にしかないものであればオンリーワンを狙える。

 人がどのような人生を過ごすかは生まれた時から決まっている。そういう見方がある。持って生まれた資質がその根底にある。ナンバーワンを目指す人間と、オンリーワンを志向する人間とは生まれた時に決まっている。この自己の資質を見分けられないと失敗の連続のような人生になる。自分の遺伝子を解明できればそのような失敗は起きないのだろうが、通常は試行錯誤である。この子はこうなると早くからわかるのは実は母親(実母)である。

 

正常心で生きる

 この歳になれば、もう欲も得もないとよく言われる状態に自分自身がなっている。それでも生きて往けるからである。その安定状態の中で何事も考え行動する。老後と言われる現在はそれが救いである。まずは健康に恵まれていることが最低の条件である。病気に見舞われているとそのような気持ちにも成れない苦しみが襲っている。お陰様で今現在、病苦と言われるような不都合はない。

 正常心は穏やかな海面のような静かなうねりである。わたしはそのように思っている。いつ風が起こって波が立つかもしれない。それが天候次第であるように、心も波立つような環境に置かれると穏やかではない。心を静かにさせて置く環境に身を置かねばならない。心は身のありようによって動きを左右される。心身一如とはまさにそのことを指していると思う。

 驚き、恐怖、不安、絶望といった心の動きは健康によくない。そのようなことが起こる環境から身を遠ざけるのが老後の安全のかなめである。老人はこのような負の心の動きに弱い。その動揺によって自分を見失うことがある。それで身体が不規則な運動をすることがある。暴れる、もがく、悲しむなどはその心理の現れである。嬉しさ、歓び、安心、などはその逆で心を朗らかにさせる。心は浮ついている。老後最も避けねばならないのはこのような正負の心の動揺である。

生き方の選択

   常に備えて生きる。これは戦時中の生きかたであった。常住坐臥に安心は無く災害に備えて生きることがこの国に生きる人の踏み絵であった。今、コロナでまさにその頃を思い出さされている。というか、それに気づいたという次第である。改めて、慎み深く生きることの大切さを思い知らされている。なんでもありの放埓な生き方は自らを亡ぼすだけである。

 身体髪膚これを父母にうく、あえてきしょうせざるは孝の始めなりとは「孝経」の教えるところであった。私たちの昭和世代はその教えを学校教育の中でも受けて育ったのである。親孝行のためには乱暴な生き方はしてはならないという戒めを教えられて育ったのである。親孝行という道徳訓であったのであるが、それを見の安全のための用心を示唆したものだとも思って受け入れたのである。

 安全と用心は常に表裏一体ある。親孝行のためには安全を守れという。そのためには何事にも用心大切という。これを守っておれば危険に近付かなくなる。危ないことをしてはいけないよ、親が泣くよという教えを現在の子供はどれほど守っているだろうか。こういう保守的な生き方はむしろ嫌われて危険にチャレンジする生き方のほうが選ばれているのではないか。現在のスポーツ競技はまさしくリスクテイキングだと思う。勝敗のためにいのちを賭けているのである。

2020年12月31日 (木)

自然信仰の神々

   一生を楽しいものにするためには、通常の感覚を止揚し神の道を往く思いになることである。神は八百万の神で神羅万象何処にも宿っている。そういう思いに徹して生きると苦も楽になる。神と共に生きるという感性が人を育てる。この国の人は昔からそういう思いを抱いて生きてきたものである。神々が自然のなかに在って、美も醜も、賢も愚も、正も邪も、あらゆる感覚を司っている。神は姿を現さない。見えざるにいます神と言われている。

 神は自然信仰のシンボルである。自然は偉大で恐ろしくしかも美しく険しく存在している。万物は自然にはぐくまれ拒否され無視されながら自らのいのちに花を咲かせている。人間もそのうちの一つである。すべてのものは自然から生まれ自然に帰る。生死一如とはこのことを指している。そういう思いを抱いて生きているとすべてが朗らかである。苦も楽もない、喜びも悲しみもない。

 自然体で生きるという言葉があるが、それはまさしく自然の神の教えのままに生きることである。神を信じるも信じないもない。自然そのものが神である。このことは山そのものを神とあがめる信仰によって語り継がれている。近畿では、大和の三輪山がその象徴である。神が山に宿るという。それは人間が自然に感じる霊気のようなものの実体なのであろう。だが実体は見えない。

 

2020年12月30日 (水)

天皇の謎

   波乱万丈の2020年、令和2年も明日で終わる。天皇が変わってまだ間もない。戦争を体験していない世代の時代になってわずかに、1,2年である。平成の天皇は幼いころに戦争を体験し戦後はヴァイニング夫人の教育を受けて育たれた。恋愛結婚の範を召された形になったのも時代の象徴の一つであった。象徴天皇となられてからは戦没者の慰霊のために戦場であった地を数々訪れられ慰霊に努められた。

 現在の天皇も恋愛結婚である。家族の子女を配偶者とされることは、先の平成の天皇と現在の令和の天皇に共通している。明治以来の公候白子男の貴族、皇室ゆかりの華族という階級も敗戦によって消滅した。万民平等のアメリカ型の社会に転換したのである。貴族も貴族院も当然なが消滅した。だが天皇と皇族は残った。これをもって、国体は維持されたといわれている。だが天皇は一切の政治権力を持つことなく国民統合の象徴として残されたのである。ここが戦後民主主義の特徴としてあげられるべきである。

 令和の天皇は即位の年の大嘗祭で天照大御神に即位の報告を為された。お食事をご一緒に為さる儀式もあった。神話の世界を今生きているような行事ではないか。この国の歴史には維新しかなく革命は無い。無条件降伏においても戦勝国による天皇家の廃絶は無かった。天皇制は廃絶されたが天皇は国民統合の象徴として存続することが許されたのである。このようなことは何かの謎を孕んでいるように思われる。

 

過去を背負ったこれから

   人間が自然に挑戦している。宇宙探検から宇宙開発のステージになっている。人間が宇宙に居住しようというのである。同時に宇宙に軍事拠点を設けるという競争が始まっている。中国の野望はアメリカを凌ぐほどすごいと風聞している。ロシアの乗物で日本人もアメリカ人と一緒に宇宙に不移行していたのである。最近はアメリカの乗物でゆくようになったとか聞いているが、ロシアとアメリカの宇宙での協力関係には歴史がある。中國は例によって単独進出である。中國は単独で世界制覇が目標になっているようである。

 日本はアメリカやロシアにくっついてしか行動できないのがその実力である。アメリカに隷属する同盟国であるという現実がすべてのことに働いている。日米関係のすべてのことは先の戦争での無条件降伏の結果である。日米安保条約が戦後の両国の関係の根底にある。だからアメリカ軍の基地が治外特権のもとで存在している。この国の独立の限界を今更のように再認識するのは何故か。この国の同盟関係が根底から覆るかもしれない政治理念がアメリカで台頭してきたからである。

 この国が今ひとつ真剣に立ち向かっているのは自然災害であろ。日本列島そのものが自然災害の温床である。小さい時から、風水害、地震の恐ろしさが身に染みている。津波は経験したことがないが、先般の東北地方の津波のおろしさは、テレビで見ていてさえ、肌身が震えた。今でもあの映像は息が止まる程の怖さを引き起こす。阪神淡路の震災もすごいものであった狭い範囲で6500人以上が震災死している。この震災の有った1995年に神戸は死んだ。ポートピア81の頃の活気はもはやみられない。熊本も自然災害から立ち直っていない。今現在も各地で地震が多発している。

年末の人出を抑えるコロナ

   2020年もあと二日。今日と明日だけになった。コロナの感染が収まらないどころか変種も登場して世界中が厳戒態勢である。年末年始がコロナ風で異常な雰囲気になっている。人間の生き方が変わるのだという実感がひしひし身に迫って来る。これまでの生きかたはもう諦めねばならないような情勢である。年末の帰省客がほとんど消えている。感染の拡散を回避しての自衛だという。

 街全体があちらでもこちらでもしゅんとしている。人出が少ない。つい最近までは、政府もコロナをなめたかのようにGO TO という割引旅行と飲食で景気を盛り上げようとしていたが、その効果と感染の拡大を天秤棒にかけて測ってみれば、どのような結果が出るのか、これまでの天秤では感染拡大の皿の重しが下がっていたのではないか。1月11日以降の再開に踏み切れる情勢なのだろうか。医療崩壊を招かないのも政治である。

 明日は除夜の鐘が鳴る。これは期待していいのではないか。だが寺社へのお参りは激減するだろう。オンラインで鐘の音に耳を傾ける家庭が増えるのではないか。それがコロナに対する正当な警戒心の現れであろう。そうではない、いつも通りがいいという人がどれだけいるだろうか。そういう意地っ張りが怖い。素直に自然に従うのがいい。コロナは自然の使いであると思うべきであろう。

 

 

パソコンとスマホどう使ってる

 パソコン世代の私では、スマホは厄介。どうしてって、小さすぎる。手のひらサイズは持ち歩きによくても目にはよくない。自分の目との距離が近すぎる。スマホ世代はこれになれている。つまり、慣れの違いが世代感覚の差を現わしている。

  パソコン空間は、スマホとテレビのあいだである。この三つの空間にはそれぞれの役割がある。一日の楽しみはこの空間を自由に選択することである。一日の暮らし方がどのようにビジーかによって、三者の選択が自ずから決まって来る。これをわたしは次の三つの言葉で分けている。
自分がスマホに乗っ取られたように、スマホが無いと生きてゆけない。パソコン族はゆっくり時間を楽しんで自分の自由な企画を優先する。テレビ族は自分で操作しないで情報を受け取って楽しむ。お題はスマホとパソコンだからテレビのことは言わなくっていいかもしれないが、スマホもパソコンも手にしないテレビ族が健在であることも見逃せない。

  

2020年12月29日 (火)

厄介な為人(ひととなり)

   迷いを去るのが人生一番の安全で有る。だが確信は己の愚かさに気付かせない。迷ってばかりの人生ではどうしようものない。何をするにも自信がない。そういう人は優柔不断と言われる生き方をする。それとは逆に、何でもかでも自分の思ったことを押し付けて来る人がいる。この日とは物事を実証する習感がない。独断専行と言われるタイプの人である。

 為せば成る為さねばならぬ何事もという。為すことの難しさが行為の前に障壁となって立ちはだかっていることが多い。だから、一概に、為さぬ人を非難することを良しとも言えない。為さぬは人の為さぬなりけりと決めつけるのもいかがかと思う。不言実行が褒められることがあるが、事に由りけりで、周りが迷惑することもある。有言不実行は、あげつらうばかりで、人に期待を持たせては失望させる。

 すべからく、己はいかにあるべきかを、自分に問いかけてみて、ハタと困るのは、自分が判らないことである。自分を常に見詰めて生きているのではないので、自分のことはわからないことが多い。これが他人に迷惑をかける基でもある。己を知らないで人にとやかく意見するのは愚の骨頂である。だがそう思わないのも人間の無責任さの現れである。

2020年12月28日 (月)

心が自分から遊離する

 さまにならないと思いながら、さまよっている自分のこころと出遭う時がある。自分の心でありながら、自分には空々しい。自分とは距離を置いている。気分もいい。落ち着いて思案することもできる。静思黙考の境地なのかもしれない。心を空っぽにしていることで静思の楽しみに浸っているのであろう。自分をこのように突き放して観ることに安らぎを覚える。

 人は友を求める。それが当たり前のことであると思う.他の動物だって群がって生きている。併し、それが必ずしも楽しいことではない。価値観の違いが孤独を選ばせることもある。修験者などはそのたぐいである。その昔は洞窟に一人籠る仙人と呼ばれる人間もいた。密教の世界がそこに有ったのであろう。弘法大師もそれを実践してきた行者であるといわれている。

 孤独はすなわち万物と接することである。自らを没するすることによって万物の世界に入定する。これが悟りでありまた死の精神的な意味でもあるのだと思う。逆に言えば、人は死することによって万物と共存する。ひとりで生きていても沢山の神佛と話し合うことができていればにぎやかで楽しい。神仏は人が自ら招くイデーである。招かなければ存在しない。神仏と共に生きる意識が自分の心を静かにさせる。心に迷いはない。喜びも悲しみも超える。そのような世界に案内してくれるのが般若心経ではないかと思っている。

コロナが明かす世界の動向

 暮れが来る。今年も無事でと言いたいが、コロナで不安が広がっている。三蜜は禁物である。それでも年末の会食が平然と行われている。政治家の会食がその中で最も多い。死者も出ているというのに懲りないで続けているのがおかしい。横着なのである。政治家の本性をさらけ出しているようなものである。

 コロナを侮っていてはいけない。その結果が出ている。それでもワクチンがあれば問題は解消すると構えている人も多い。その前に、医療現場が崩壊すれrば万事休すである。通常の疾患にも医療が及ばなくなる。大局に立って物事を考える習慣が身についていない人が世間を混乱させるのである。それに付和雷同する人々が災いを拡大する。

 こういう時に、中国のような独裁国家では、お上の御意向が全国民に行き届くのであろう。お上に逆らえば生きておれない国なのだから。トランプのアメリカは全くその正反対でお上が国民の常識に逆らっている。大統領はマスクもつけない。感染は拡大を続けている。21世紀は中国の世界になるとはこういうことから現実味をもって見られている。

 

コロナは人間に対する報復か

   真夜中だから目が覚めている。これが困ったことなのだが、致し方ない。雑念がごろごろと湧いて食うのもこの時である。異界との交流もこの時に起きる。異界というのは地球圏に対して宇宙圏であろう。大空までが地球の世界、それを超えると宇宙になる。宇宙に人間が進出している。宇宙の神秘を暴こうというのである。宇宙に人間が移住することも検討されているという。そのための人間改造がテーマにもなっているようである。

 地球を荒らしまくって、自然環境を破壊し、地球にダッメジを与えている。このままゆくと地球に破滅的な変化が現れるかもしれないと警告されているほどに人間は慎みを忘れている。自らの生存環境を破壊しているのである。天変地異が頻発しても当然と思われている。地球そのものではなくて、地球に住む生物にこれまでにない変化が生じるかもしれない。

 今現在のコロナだって、その一つかもしれないと思いたくなる。人間の手には負えないほどの猛威を振るって拡散している。地球全体がコロナ禍の感染の領域になっている。コロナ以外のウイルスが同時に活発に動き出すと防ぐのはむつかしくなるのではないか。ワクチンの開発が追っつかなくなるだろう。派生する弊害は経済の破壊である。人間の生活が脅かされる。社会が壊滅するのである。コロナは人間に対する自然の報復かと思いたくなる。

翁とは異界への案内役

 この頃は長寿社会になって、翁という言葉も聞かなくなった。翁が珍しくなくなったからであろう。翁とは現在の相場で言えば90歳超だと思う。たいていの人は80歳代で人生を終了しているからである。だからこの辺に一つの腺が引かれるように思う。それは神仏のみが知っていることで人間にはわかっていない。医者は承知しているというだろうが、経験的事実から類推しているだけであって、しかも物である人間を観察しての結果であろう。長寿イコール翁ではない。精神的な次元で通常の人間を超越していることが翁の条件であると思う。

 翁と仙人とは違う。仙人は修験者から生まれる。翁はそういう特別な修行の結果を踏まえたものではなくて、ただの人間でありながら精神的に異界に達したものである。樹木で言えば年輪がその条件である。巨樹には神とあがめられるものがある。これは異界に達した樹木である。私はそう思う。自然界には異界がある。神仏はこの異界に存在する霊気であろう。したがって本来かたちは無い。それを仏像にしたのは方便である。わが国では、神を造形していない。神は自然の霊気そのものであると受け止められている。神道に仏教のような方便は無い。

 翁は神仏に近い。異界に住み異界を知る。人が普通に接してきた翁は化身である。人でありながら人ではない。人としての存在を止揚している。昔はそうした翁が人間として生きていたのである。今はまれにしか見当たらない。これは人間が精神的に退化している証拠ではないか。人間を物としてしか扱わない社会では人間の神性が打ち消されている。

2020年12月27日 (日)

言葉の魔力

 その昔、若かりし頃に、先生から習ったことだが、己のことを、僕とは言わないで私と言いなさい。軍隊に入ってからは、私ではなく[自分は]と言えと教育されました。僕、私、自分が、年齢の順に並んだことを思い出しています。

 ある結婚式の時、ある来賓の女性教授が挨拶で、新婦に、新郎を主人と呼ぶな、新郎の靴は磨くな、と教授するように言われた。披露宴が騒めいたような雰囲気になったように記憶している。男女同権の教えだったのでしょうか。この方の夫も大学教授で学生時代に相思相愛になられたとか聞いていました。

 ある市役所では、職員が、市長を呼ぶのに、「うちの市長は」と言っていましたが、その県庁では職員が知事を「知事さん」と「さん付け」して外部のものにも紹介していました。通常、会社などでは会社員が自社の社長を「うちの社長さん」と「さん付け」するのは聞いたことがありません。市役所と県庁の職員のカルチャーの違いを感じましたし、民間の「当たり前」に共鳴しました。

 ある役所の職員が、自分たちは「公務員」であるが、「公僕」とは言われたくないといいました。この職員にとっては、公務員は、上から権力を行使することに誇りを感じていらっしゃる意識が強いようでした。民主主義のもとで、公務員が市民・住民に奉仕する役割にあるという意識は受け入れがたいと思っていらっしゃるようでした。

2020年12月26日 (土)

老年期の生きざま

   最近、つくづくと思うことは、90歳をも超えて生きていると、老人といった世間の基準からも外れているということである。そう思わざるを得ないほどに世間から遊離してしまっている。80歳代の終わるころまでは、世間と言われるものとの付き合いも残っているのが普通のようで、老後とはこの年代のことを指すといってもいいのではないかと思う。初老は還暦がサインである。勤め人の定年もこの年頃である。中老という歳回りがあるかどうか知らないが、70歳代はまさしく自信に満ちた老年期である。これがこの頃の老人の実感ではなかろうかと思う。80歳代は老いがひしひしと心身を責め立てる年代で有る。年末に戴く喪中挨拶状でも納得という受け止めができるのは80歳後半である。

 90歳を過ぎてからはある意味では例外のような人生になっている。100歳まで生き抜いてくださいねと励まされることが多い。長寿社会の先駈けをしているように見られているらしい。いずれは100歳まで生存するのが当たり眼になるのだろうけれどの今はまだそこまでは多くないといったような雰囲気が世間に漂っている。だから、100歳人生の開拓者でなければならないといった気持にさせられてもおかしくない。そうした人たちが今盛んに自伝のような書を公刊されている。他方で社会の技術革新は非常に速いスピードで進行している。これに乗り遅れたり、取り残されたリしないようにしないと、社会の邪魔者になったり、生きていることを無視される存在になる。

 

 

コロナが暴いた先進国は何処

 今年も暮れます。来週28日・月曜日は、役所は午前の挨拶で終わる。会社はまちまちだろうけれども。役所は一律のお休みに入る。忘年会は密かにもう済ませたか。コロナで遠慮が常識だと思うのだが。兎に角、今年は世界が変わる年であった。コロナがこれまでの人間の生活習慣をすっかり変えさせたのである。

 コロナに勝たなければ明日は無い。そういう状態が続いている。それでも生活習慣を変えられない愚鈍な人間が沢山いる。コロナを軽視しているのだろうが、勝てる自信はあるのだろうか。ワクチンだけが頼りだというのではないのか。この国のワクチンはアメリカ、イギリスから分けてもらう予定だと聞いている。中露は自分たちの国でワクチンを製造できるようである。フランスも自家製ワクチンがあるのだろう。とすれば、国連の常任理事国がそろってワクチンの製造できる製薬会社を自前で持っていることになる。ドイツはどうなんだろうか。製薬の本家のような国だと理解していたのだが。

 コロナははしなくも世界の先進国を明らかにした。コロナに勝たなければ人間は生存できないのだから、コロナによる世界の評価は最も確かな評価である。自国製のワクチンを供給できる国がこの際は先進国である。日本はもはや先進国ではない。外国からワクチンを供給してもらわないと日本人は生き残れないのだから。自国の産業力で自国の国民を守れない国になっている。

2020年12月23日 (水)

国家を超えた世界の連帯を生むコロナ

    シネマ「聖衣」を観ながら、古代の西洋の歴史に接しているようであったが、人間が獣に近い時代と出遭っているようであった。「奴隷」文化
の愚かしさを桃い知らされているようである。人間が人間を支配する階級社j会の原型のようであった。一足飛びに現代はどうだろう。人が人を支配する国家、社会が存在している。それを可能にしているのが「制度」である。人間は鞭を制度に置き換えたのである。
 制度を駆使するのが政治である。政治理念を勝ち取ったものが政治を動かす。君主主義から民主主義へと時代は推移し、王室は国の飾りものになっている。この国でも皇室は憲法によって存在するものとなり、政治に関与する権力を剥奪されている。だが、西欧の多くの王国の王室のように国家に寄生するのではなく、国民統合の象徴という地位を与えられている。「君が代」は生きているのである。

 コロナで狂っているような今現在の世界の中で、国家という枠組みも揺らぎ始めているのではないか。コロナには国境がない。人類は国境を捨ててコロナに立ち向かわねばならない。WHOがその仲立ちをできるだろうか。それを期待しないで、この名に立ち向かう力を持った国の政府が直接に世界に自らの力を貸すべきである。ワクチンの接種がさしずめの仕事である。世界の人々の連帯がコロナによって生まれれば幸運である。

2020年12月22日 (火)

コロナと政治の因果な対応

 イギリスのコロナ変異種は感染力が従来のものより70%も高いといわれている。そこで、ドイツ、フランスをはじめ欧州各国は、イギリスからの入国を禁止する措置をとったという。イギリスがEU から独立したこと思い出した。コロナがEUのイギリスからの独立を促したである。おんべこやね。

 アメリカがアメリカ第一を政治目標にした。国際連帯主義を捨てて独善主義に走った。コロナがアメリカで猛威を振る舞って国民を分断している。貧富の格差をコロナが浮き彫りにしている。白人主義がコロナに対抗する。カラーは捨て去るような差別社会がコロナで出現している。アメリカはコロナにスキを突かれているよ。

 日本は戦後ずっと戦勝国、国連を気にした日和見主義で過ごしてきた。是々非々を適当に都合よく解釈して、四方八方の顔色を窺って、穏便な対応を期待して政治をやってきた。今も変わらない敗戦国の忍従と平和主義がお香で存在感を示している。コロナも、GO TO やったり止めたり、コロナの顔色を窺っていて、一貫した哲学がない。時には政治が優先し、時には医学が尊重されている。国民はおとなしく追従して、どちらでもいいように暮らしている。

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