瞑想 誰彼

 私の中の誰彼が私の予期しない時でも行動する。これはびっくりだが、それが普通になっている。何が何かと不思議に思うこともあるが、常には慣れきっているので、またかと思う。だがそれで私が迷惑することもある。そうだと思っていたが、それでよかったのだという結果が出ていたりする。結局そういうことで、私は誰彼と共同生活しているようである。自意識と無意識が混在している。その色合いは時によって違うが。何もない時は白だと言っていい。光であるときもある。どのような色かは発動する時によって違う。
 自由自在と不自由が重なっているので厄介である。どちらか一つということがない。人並みに体も弱ってきた。この頃は、もうこの人生も終わっているのだからという気持ちが先に立っている。その気持ちで見ると何事も穏やかである。喜怒哀楽は平準化されていて、どちらであってもおなじであるという感覚が優先している。今現在、自分の目の前にあることも、身近で起きていることも、かなり遠くで発生している事象のように感じられるし、そのように見えて来る。まるで遠くの山を観ているようなものだし、遠くの空を見詰めているようであもある。人が近くにいても遠く隔たっているような感覚である。身近というか、自分の中の誰彼が勝手に動かないように願っている。だが、それは無理な注文のようである。誰彼には存在の自由があるようだから、私がコントロールしたり、排除したり、忌避したり、歓迎したり、依存したり、とにかく私の気持ちに沿ってくれるように願うことも何の働きにもならない詮無いことである。
 でも、こうして文字にしているとその気分もおさまる。誰彼と対話しているような感覚があるからであろう。誰彼が見ている、聞いている、触れている、嗅いでいる、噛みこんでいる、思っているなどの、感覚器官の働きのようなことは想像しても無意味である。それ自体が誰彼のみえない力なのだからと、誰彼を分析することは諦めている。あるがままに受け止めるしかない。でもとにかく、私と一体であることにはかわりはない。厄介だが、毎日そうして生きている。自分一人ではない私が誰彼と一緒に生きている。誰彼は自分の影だということもできるかもしれない。心の中の根っこにある胚胎だと言えるかもしれない。

2019年10月17日 (木)

世代交代の過流の中に身を置いて

 今現在のこの国の社会で一番気になるのは、高齢者が社会の生態を変えつつあることである。先のブログにも書いたが、高齢化した高度成長期の働き盛りの人がんが、今、安楽に暮らせる場所を探し求めて、旧市街地に高地の邸宅街から戻りつつある。歩行困難になって日々の買い物もむつかしくなっている。坂道の大木開拓団地は須水らくなって、旧市街地の平地を求めて帰還しつつある。豪勢な邸宅も、高層住宅も、高地に立地している物件は捨てられつつある。これが狭苦しい旧市街地を一層混雑にしている。足腰が弱っただけで、高度成長期に出来た新しい居住地が捨てられていることで、地方自治体によっては空き家対策に追われている。高度成長期を創った世代が人生の幕を閉じるときに、彼等彼女の築いた新興住宅地も閉ざされつつある。
 こうした人口動態がやがて来るこの国の人々の生態の変化を示唆している。都市の深層深くにもどってきた経済成長期を創った世代は老齢化し年の重荷に転化している。社会福祉と医療介護の受け手になって呻吟しているのである。あるいはその多くが既に黄泉の国に逝っている。後を継ぐ世代も新人類と騒がれた世代が既に50歳代半ばを過ぎつつある。この世代は自己本位ん生き方を宣タスして社会の人々の連帯をあちこちで壊してきたのである。親の成功の成果を貪り食ってきた世代である。しかもそれだから老いた親の世話をすることも何のかんのと理由をつけては拒否乃至回避している。
 このままではこの国の将来を担う世代に不安がある。だが幸いなことに新しい二十歳代前後の世代は、どうやら、親に頼らない独自の生き方を発見しているようである。彼らが新しい価値観をめいめいが実践して自分たちの思いに適った社会を浮上させるとき、この国は新しい国家像を描き出しているだろう。

2019年10月16日 (水)

居住環境の選択は何を語るのか

   今日もまた長生きのページを綴ったが、別段何事もない平穏な日であった。世間が落ち着いている。久しぶりに尋ねた町は、歴史が止まったように昭和10年代のままであった。建物が変わっていない。街も整理されていない。其処に生きている人間も昔と変わっていない庶民だった。地方自治体が何をしていたのかこの90年程の時間が停止している。見捨てられた街であった。変わったことは唯一つ郊外電車が高架になっていることであった。あの空襲にも生き延びたのである。その後の地震にもやられていない。日本中を探せばこのような郊外の街が沢山生き延びているのではないかと思った。
 旧市内と言われたようなところはすっかり変わっている。新しい建物がぎっしりと立っている。昔の面影を偲ぶことはもはやできない。成功したものだけが残っている。あとはすっかり入れ替わっているのである。住み着くことができなかったのか、住み着くことを選ばないで新しく開発された団地などに移ったのであろう。山野を壊し河川をうずめて新しい「団地」が生まれたのが高度成長期までの戦後のこの国の宅地開発である。
 新しく生まれた「団地」には生活文化の歴史がない。居住した人間もどこから移ってきたかわからないままに新しい集団ができあがっている。村落の義理人情などここにはない。近所付き合いもない。あるのは、「鍵のある生活」である。日本住宅公団の団地がその典型になっていた。向かい同士の家も鉄の扉で向き合っている。地方自治体も同じような公営住宅を建設した。最早平屋建てはない。一戸建て感覚の家もない。高層建築が街を見下ろすことになった。ビル街である。人は喜んでタワーマンションに住むようになった。こうした都会の生活文化を演出しているのが地方自治体である。役所が住民の自治会を創り住民によるまちづくりを働きかけてきたのである。
 高度成長期に取り残されてきた郊外地はこの流れの外に立って、昔ながらの生活環境をとどめている。だがそこは時間が止まったままのような生活環境である・高度成長期に開発された団地は、住民の高齢化で居住には不適な生活環境に転化し、市街地のマンションに人々は還流してきている。市街地の魅力はその便利さにある。市街地が産業立地から高齢者の居住地に変わりつつある。これが地方都市の実情であって、過去に開発した団地や高級住宅地は見捨てられつつある。都市住民の高齢化がこの国の生活文化を変えつつある。

2019年10月15日 (火)

お寺で科学を学ぶ

 この頃の科学者は、摩訶不思議な宇宙の中に巻き込まれているようで、これまでの常識が非常識になる体験を強要されているように見える。それがまさしく四次元の世界の不思議であると理解していいのではないだろうか。量子性の話など、摩訶不思議としか言いようがないのではないか。そういう世界のことを説いていたのが、般若波羅蜜多であると言われている。最近、科学者による般若心経の見直しが盛んである。このことは、最近、何度か、このブログにも書いた。
 宇宙哲学と科学がその発見について一致点を見出すというか、交差点を持つというような現象である。これで般若心経もわかりやすくなったと思っている人が出て来たのではなかろうかと思う。この湯女話に興味を持つといつの間にか科学読み物の虜に立ってしまう。老人が時間を過ごすのには格好のことだと思う。宇宙の真理を探検する人、発見する人、解説する人が出揃って、知的刺激を楽しむ老後がやってきている。健康で長寿を願うならばこのようなことに興味を持つのも一つの生きかたであろう。子供の時のような好奇心が復活してくる。しかも世の中の進歩について往けるかもという期待がる。時代遅れにならないというひそかな安心感が元気をくれる。
 実は、こういう勉強はお寺でやればいいと思っている。お寺はその昔、教学の中心であった。老いも若きもお寺でこの世の真理、あの世の真実を習ったのである。この教材が経文であった。今このお寺で、科学をまなぶことができれば、お寺の復興に役立つのではないか。そもそも、そのような衆生の教化がお寺の本来の役割であったのである。今のようにお寺が観光資源化しているのは本来の寺の役割から言えば邪道である。

2019年10月14日 (月)

コアラが教えてくれる経営学

 大阪動物園からコアラが居なくなる。イギリスに期間十年で貸し出されるという。年間3600万円のエサ代がつらいというので延長が決断したという話がテレビに出ていたが、飼育係の悔しさ、寂しさが同時に映っていたので来園者と共に複雑な気持ちになった。経営判断だといううが、小嵐生野技術が継承されなくなると飼育係が嘆いていた。経営合理主義をこのように貫くと日本の動物園は日本産の動物だけという極端なことになってもおかしくないのではないかと思わされた。文科省出身というこの園長さんはいかにも官僚的な判断をしたように思われる。損切り経営学の実践で、予算で行動してきた人らしい判断だと思った。コアラが居なくなって入園者が減少すれば経営はさらに悪くなる。このような方向での判断であれば、動物園そのものを廃止するのも一つの選択ということになるのではないか。もっと他に理由があるのではないか。

2019年10月13日 (日)

この暴風雨は何を教えてくれたのか

 この災害に、ほとほと、この国の苦しみがわかってきた。自然を愛し自然と共に生きることを文化とすらしてきたこの国の住人が、自然に痛めつけられている。其れも最近は、これまでにない激しさと頻度で台風が襲ってきている死地震も多い。これで、全国各地にある活火山が相次いで噴火すれば、この国はどうなってしまうのかと心配が重なる。北陸新幹線は車庫に止めてあった車両120両が水に浸かって敗者になったという。当分通常の列車運行はむつかしいであろう。河川の決壊と氾濫も各地で起きている。居住地も浸水したままである。日常生活すらむつかしい。衛生面が何よりも心配である。
 はて、どうして生きてゆくのか。被災者の生活が心配である。テレビで見渡す限りの浸水地を見ていると気が遠くなるほどである。ため息が出る。自然災害がここまでくるとこの国土に居住していることの難しさが深刻な悩みを誘ってくる。非常事態である。天を仰いでため息がである。この暴風雨は何を教えてくれたのか。

奉仕の心と人類愛

 今朝は、「奉仕の心」が浮かんできた。戦中の思い出である。あの頃は国を挙げて、奉仕の心が叫ばれていた。戦争協力を国民の美徳とすることであった。今は、災害救助、災害の後かたずけが、「ボランティア」と呼ばれて実践されているが、国が音頭をとっているものではない。少なくとも表面にそうした気配は浮かんでいない。国は国民に協力する姿勢をとっているように見える。
 国家が変わるとこのように変わる。国家主導から国民主導に転換している。これがいい。でも、ポピュリズムは御免である。あの裏には強欲な人間が隠れている。人をあやつって自分の利益を図ろうとする悪辣な運動である。ポピュリストが政治を握るとろくなことは起きない。正義も人道も踏みにじられる。
 良いも悪いもみなひとのこころのなかに在る。人の行動はその動きによって現れている。心を糾す教育が大切である。昔の「武士道」はそういう働きをしていたようである。今はそれに代わって金儲けで成功した人間をうらやみ尊敬し追従する心が国民に植え付けられている。経済至上主義がその表れである。人を蹴落としても、人を殺しても、何をしても金を手に入れたもの勝ちであるというような思想が植え付けられている。それが世界を支配している。この国だけのことではない。「アメリカ第一」というプロパガンダに現れている。
 このさもしい世の中を良い方向に転換する政治を実現する政治家が登場してほしい。それこそ仁徳である。東洋の心を復活する世紀になってほしい。森政弘氏の「仏教新論」を読みながらその思いを強くする。世界をリードする科学者にこそその心が求められていることを森氏は訴えておられる。科学が世界を支配する時代であるからその訴えには真実味がある。欧米の科学に欠落する人類愛が世界を危険な方向に導こうとしていると言われている。

2019年10月12日 (土)

「オノズカラなる」とはいかなることか

 森政弘氏の自在学に学ぶ。
「華厳宗に四法界という宇宙観があるが、それに当てはめてみると、①オノズカラの世界ー理法界(平等的な本質界)②ミズカラの世界ー事法界(差別の現象界)③オノズカラとミズカラの世界ー理事無碍法界(本質界と現象界とが一体不二の世界)④ミズカラのミズカラの世界ー事事無碍法界(現象界そのものが絶対不可思議な世界)。自然の世界と自己の世界との関わりを示すこの四法界の内容は、(省略)すべての各々の存在、それぞれの現象、あらゆる性質というものが、それぞれの理法をもって現れているということなのである。それだからこそ、個と個、個と全体の美しいハーモニーが保たれ、調和的世界として現成している。即ち、目の前に現前している存在のすべてが、そのまま悟りの相を現わしているのである。(改行)ゆえに、我々が、あらゆる文化的、文明的行為の上にこの調和をして調和たらしめることこそが、自在性の必須条件であると居わねばならない。」〈248-249頁)。
 此処までの説明で、何がわかっただろうか。「オノズカラ」と「ミズカラ」の関わり合いの姿が華厳宗の四法界に類比されていることは解かるが、それからどのような意味が出て来るのかについては、解釈がちょっとむつかしい。オノズカラと言われる本質界とミズカラと言われる現象界は、自然と人間の関係が本質と現象としてとらえられていることを示しているのであろうか。自然から人間が現象として生成しているという解釈でいいのであろうか。オノズカラ(自然)とミズカラ(人間)とが出合う世界は一体不二の世界であるという。それに対してミズカラ(人間)とミズカラ(にんげん)が出合う世界は、現象界である人間の世界がそれ自体として絶対不可思議な世界であると言っているのであろうか。ここで、「絶対不可思議な世界」とはどのような世界なのであろうか。それに対する答らしきものが次のように示されていた。この直前に引用したように、「個と個、個と全体の美しいハーモニーが保たれ調和的世界として現成している」のが本来であるのに、それこそが「自在性の必須条件である」のに、
「それなのに、現在の創造的行為は、事法界すなわちミズカラの世界の身に終始して、理法界すなわちオノズカラの世界を無視、あるいは理解することを怠っていると言える。そのために行為が普遍的な心理に背いて、理事無碍法界・事事無碍法界のような融通無碍の世界を現成するところからは程遠いことになって、堕落してしまっているのである。ここに今日の行き詰まりの根本原因があると考えられる。このようなs、オノズカラの世界を無視した想像は、無謀であり、危険であると言わねばならない。」〈249頁)と、森氏は嘆いておられる。

 これを翻って考えてみれば現在の科学技術の進歩には、自然の理法を無視し、人間界の掟をないがしろにした非理法のリスクが胚胎されているということであろう。それがまさに欧米人の科学の限界と危険性であることに警鐘を鳴らしておられるのであろう。そして、オノズカラへ至る「即」の姿勢を説かれている。それこそが般若の世界なのである。

 

 

自由と自在はこんなに違う

 人はみな、自由自在にあこがれている。魂れは間違いない。そうでないというのは嘘である。政治では自由主義が民主社会の基礎に置かれている。これを自由民主主義などという。自由とは束縛の無いことをいう。これにおまけがついて自由自在ともいう。その意味は、ミズからに由ってミズから存在するということのようである。ミズからとは、自分自身からということであるらしい。これを超越するのが、オノズからということであるという。これは人間を超越した自然の働きを指しているらしい。その働きの状態をじねん(自然)という。これは仏教語であるらしい。このジネンの状態にあることを自在というと、森政弘氏著「仏教新論」の第10章「自在学への道」(240頁以下)で教えている。それは仏の道である。
「『自在』は、今日一般には、自由の代名詞ぐらいに気楽に考えられているようであるが、本来の意味は自由とは比べ物にならぬほど深玄なものである。(省略)因みに、自由の対応英語としては、freedomとかlibertyがあるが、自在の対応英語はないのである。つまり欧米には自在という観念はないと思われる。逆に舞狂の経典には、自在の語は多くみられるのに、自由という語は筆者の知る限り見当たらない。」(240~241頁)。
 このようなことであるから欧米人と日本人(仏教徒)には自分の在り方に対する根本理念において理解不可能な違いがある。仏教徒である日本人であるならば、「己を虚しくした自在」に生きることが理想であるが、欧米流に感化された日本人では「気儘勝手の自由」が理想になっている。そうではないだろうか。同氏はさらに次のように言っている。
「われわれが自在に行動し、自在に思い、自在に聞くとは、どんなことであるかを考えてみよう。それは、「自在」は訓練すると、「ミズカラある」と「オノズカラある」という二通りの読み方ができ、普通はこの二つは自と他の関係、主観と客観の関係として対立的に認識されるが、この二つが「即」の関係として融合・合一するところにこそ、「自在」が見いだされるのである。」〈247頁)。

 

 

 

 

2019年10月11日 (金)

自分を知る恐ろしさ

 自分を発見するのは非常に難しい。自分は何時も変わるからである。自分というのはつかまえようとすると見えなくなる。何もしないでいると姿を現している。その自分と一体になるときがある。孤独を愛する時にその自分が現れる。達磨太師とはそういう人であったのであろうと想像する。面壁九年とは想像することもできない。自分たちはただ、瞬間の孤独と遭遇するだけである。
 人は人との交わりの中でしか生きられないという。そうであればこそ、孤独は心の贅沢である。実際に孤独な生活となれば難渋が表に立つ。孤独を満喫する贅沢と孤独に絶望する苦悩とは極端な境涯の違いである。上人と乞食のような違いである。心の世界では、上人が心貧しく、乞食が心豊かであるという反転もまた真実である。こうしたことに心を動かされて生きる。それがまた歓喜を呼び起こすのである。
 身が温まる。心が温まる。人はその両方が欲しい。だが現実にはちぐはぐが起きている。孤独な時にそれを感じると悲劇である。孤独によって心が養われるべきである。比較するもののない自分を発見する時に自分は幸福であると思う。つかみがたい自分が存在する事に自分の恐ろしさを知る。

2019年10月10日 (木)

老衰国家

  朝方の気配に起きる.何かが起きる。そのような心の騒ぎがする。年老いた自分たちの仲間とあって、食を共にしながら語り合った昨日の何かの印象がそうさせている。愕然とするほど老いていた。いのちの哀れを実感する。これを乗り越えて生きるのは、荒天の海を行くようなものであるという気配が身を包んだのであろう。それがまさしく昨夜の疲れを呼んでいた。ようやく立ち直ったのであろうか。まだ判然としない。老境を生きるのはこのような経験を積み重ねる日々を凌ぐことになる。
 高齢化社会になったこの国ではこうした現象が広く広まっている。長寿だと言っても病床に臥す老人が満ちているに過ぎない。これでは若者の負担が担いきれないほどに増えていることが判然としている。その若者が少子化で減少しているというのであるから、この国の社会を維持することがむつかしくなっている。まさしく老衰国家である。世界には類を見ない新しい国家を創りださねばならない。その昔は戦艦大和の国であったが、今現在は病院船の国である。国民の医療保障を賄う術を高度化せねばならない。この高度化の意味をこれから創り出さねばならない。今更のごとく、「生きて死ぬ智慧」が一人一人の国民に必要になっている。今また改めて、柳澤桂子氏が執筆されたこの書名の本を読み返している。

«節目を自覚して生きる

フォト
無料ブログはココログ

夢峠