2017年5月24日 (水)

質素倹約が当たり前の時代があった。

  簡素に生きる。これが昔の人の好む生き方であったと思う。贅沢のできようもない人々の間だけではなしに殿上人の間にも広まっていたようである。物に乏しいこの国では人々がおのずから身に付けていた生き方であったのであろう。それが受け継がれて精神文化にまでなった。おのずから納得するというものである。
 乏しきを分かち合うという生き方も自然に生まれた智恵であったことは間違いない。そのうちに節約が生き延びるための知恵になったのであろう。そして質素な生き方に満足を覚えるようになった。
 このような生き方がこの国には似合っていた。経済成長という発想はなかったのではないか。経済は安定していることが何よりも大切であった。江戸時代の武家の暮らしはそれによって支えられていた。衣食住という暮らしの基本的なものが変化せずに受け継がれてきたことで武家は貧しいながらも安定した生活を世襲してきたのである。
 経済の発展や成長を望むようになって暮らしに不安が付きまとったのである。明治の文明開化はその道をひたすらに突っ走た。それがこれまでは見たことも経験したこともないような生活を持ち込むことになったのである。贅沢が生まれた。だがそれに見放された生活もまた美徳として受け継がれて来たのである。貧しさを貧しさと思わないで昔からの暮らしとして受け継いできたのである。贅沢は敵だという受け止め方が生活の中で生きていた。

2017年5月23日 (火)

自らを滅ぼすものを進歩と信じて生きている。

  生きていること、それはおかしくないことである。すごくまじめで真剣で使命に導かれてあゆむのが生きている証しである。それを知らないものは餓鬼畜生の境涯をさ迷うものである。しかもそれすらも自覚できていないでまっとうな人間だと自分では思って生きている。そういう人が世の中に満ちると厄介なことになる。悪が栄えて善が滅びるというが、正邪すらも区別がつかなくなる。おぞましい人生が展開されるのである。それが他人に伝播するといつの間にか世間の常識にまで昇華することになる。我々はそれを今、毎日経験している。その実態を押し付けられているのである。人間のあらゆる徳目を欠いてただひたすらに損得だけをかぎ分けている人の行動がこの世に黒墨を撒いている。何をしでかすか見当もつかないのである。そういう人が支持を拡大しているのが今の世の中である。
 これは夢ではない。現実である。どうしてそうなったのか。人間の道徳的退化をもたらしたのは何か。これまでの文明開化がそれをもたらしたのである。人間は行き着くところまで行き着くような事態に陥っている。人間の自己否定がいつの間にか羊歯のようにはびこってしまっている。それを進歩だと信じているのである。自分たちの培ってきたものが自分を滅ぼす刃に転化している。だがそれをすらわかっていない。

昭和と平成を生きて。

  じっと人生を見つめていると、あったことが不思議なことが浮き出てくる。そんなこともあったのかと思う。そうではなしに、執拗に自分に食らい付いてくることもある。それはたいていの場合、ため息の出ることである。軽やかな思い出と重苦しい思い出が交差している。よくぞ越えてきたとおもうようなことがある。昭和の時代の戦争と平成の平和との間にあった昭和の継続は何だったのだろうかと今更のように思う。
 平成も終わろうとしている今、平成の30年間にこの国がすっかり変わったことを改めて思い出すことになった。平成元年は西暦の1989年である。この国が経済成長の最高にまで上り詰めたころである。この頃を境にこの国の勢いは下降し始めた。9・11の事件がアメリカであった年である2001年には日経平均株価が7,000円代まで下落し2013年の12月に政権交代して安倍内閣が生まれて以降、株価も持ち直した。国民はほっとしていると思う。現在で4年の政権であるが、2020年頃まではこの政権で踏ん張ってもらいたいと思っている人も多いだろう。アメリカのトランプ政権が任期を終わる頃である。東京オリンピックと重なっている。それまでに大きな災害は起きてほしくない。其処まで生き延びれば93歳である。
 

2017年5月22日 (月)

「君のまなざし」に途惑う。

   アニメ映画「君の名は」、これは今でも印象に残っている。戦争被害に遭った尾道の実話が素材だったと記憶している。人々がどれほど苦しんだかが静かに描かれていて印象的だった。今日の映画「君のまなざし」は、少女を援けるために自分が滝に落ちて死んだかに思われた少年と助けられた少女の家族や友人を巡る生死往来の逸話であったと思う。
 これは退屈だった。消化不良気味の映画だったという印象なのだが、案外と観客があった。
勿論中高年以上の男女に限られていた。昼間の暇つぶしだったかもしれない。生と死の往来というテーマはそう簡単に映画化できるものではない。嘘っぱちが見え過ぎたいた。恐山の霊寄せのような真剣さはなかったし、とってつけたような画面の転換は観ていられなかった。生と死の往来は実感がないので描けないのであろう。

2017年5月21日 (日)

天の秩序と地の驕り

 今現在進行している世界の動きは極めて危険な方向に走っているのだろうか。戦争は仕掛けないが敵は攻撃するという詭弁がまかり通ている。トランプ流の発想と行動に世界が戸惑っているのではないか。本来の平和を求めるべきときにあるのにその逆を行くような政治が進められているのではないか。
 この情勢は欧米の政治に対する戸惑いと国民の焦燥感によってもたらされているのではないか。まさに地獄絵図を観るような思いがするのではないか。これは地の驕りであろう。地球に繁茂している人間が生存の苦しさからたどり着いているあがきであろう。まさに世界の「応仁の乱」である。
 これから百年、この混乱が続くかもしれないと思うのは思い過ごしであろうか。理性を失った人間が割拠して己の富を探し求めるだけではなしに略奪するかのように敵に圧力をかけることが平常化すれば救いようのない世界になる。この状況から脱することが可能になるのは天の裁きが降りるときであろうか。この裁きによって天の秩序を地上に回復するのでなければ人類は滅びるかもしれない。それは自らの力によって滅びるという悲惨な結果を招くことになる。

2017年5月20日 (土)

日本の置かれている位置

終戦間もない頃は、進駐軍に、Good Morning Sir!の時代であった。マカッサー元帥が吉田茂総理に、Sir と言えといったとか。巷間にに伝わる話では占領軍の高圧的な態度が見られたようである。一般的にはGIは親密な友人のように振舞っていたが。
 今また、Sirの時代が来たのであろうか。安保関連改正法の成立で自衛隊が米軍の配下に着くことが明らかになった。護衛艦による米艦船の護衛が任務になった。
 これを嘆く余裕は日本および日本人にあるのだろうか。世界が猛烈な勢いで渦を巻くように変転している。戦後以来の一国平和論では世界に通用しなくなっているのではないだろうか。事情に疎い庶民には解らないことが多いのであるが、いつの間にか日本の立ち位置が世界外交の中心から疎外されているようである。世界はそのように日本を位置付けているのではないだろうか。アメリカの特使として働くような印象が多くなっているのではないだろうか。

2017年5月19日 (金)

生きているから厄介である。

   厄介なことは厄介なこと。それが何だかわからないから余計に厄介である。人生はそのようなことの連続というか断続というか、繰り返してそれに悩まされている。日々の暮らしのおカネにも困るようなのが当たり前の世の中である。そういう不安や悩みの無いランクの人々を中流という。その中流が崩れかかっているのが現在である。
 欲張りでなんでも思うようになるランクの人々が上流であるとすれば、この世の中は真っ黒である。何しろこのンクの人々には他人に対する思いやりがない。この世の中のすべてな自分のためにあると信じている。上流社会というものはそういうものである。それでいい。それがあってこそ中流も下流も成り立つのである。それがないと社会はかえって厄介になる。厄介とはそういうもので普通の尺度では測れない。厄介であるから生きていることに楽しみがある。
 そうではないだろうか。人は皆、分に安んじて生きると共に分を超えようとする。厄介なことであるが是が人間の生き様である。安心安全を求めると同時に、危険不安にもチャレンジするのが人間である。厄介なことである。このように思いながら人の厄介になって生きている。h

どのように生きているのか

  人生は必然よりも偶然によって飛躍する。そう思って間違いのないようなことがこの90年近くの間に起きていた。必然であれば予見できる。だからこれから起ころうとしていることに備えることができる。だが偶然ではどうしようもない。起きてしまってからその結果を受け入れるしかない。
 自分にとっては偶然であったものが、自分を超える次元では必然であったということも多多ある。自然科学的にはもとより必然であったのに、自分的には偶然であったということは例えば地震のような自然現象に見られるのではないか。予知できなかっただけである。自然現象では、予知・予見が可能であれば偶然は少なくなる。
 人間の社会では運命とか宿命という見えない規範があって、偶然に生起したと思われることもその規範に照らしてみると必然であったといわれることがある。これは行為する主体である本人を超えた因果律によって発生していると理解される。人は出生によてこの定めを刻印されるのである。

2017年5月18日 (木)

自分本位を掲げて生きてる人が成功すれば

  道も徳もかまわないで好き勝手、自分本位を掲げて生きてる人が成功すれば、道徳のある人が貧乏する。金持ち本位の政治や経済がはびこると、不満や不平がわだかまる。万事衡平・平等は理想になる。理想は諦めの裏返しである。
 諦めが理想を打ち破って怒りになると世の中が動き出す。怒りのマグマが噴火するのは火山の噴火と同じである。革命はそうして起きたのであろう。そこには正義というものがあったらしいが、この頃の選挙は私利私欲の塊のようである。それで政権交代するのだからよいよのなかがくるはずもない。そう思って間違いの無いようなことが世界で起きている。
 人間はどこまで堕落するのだろか。欲望の資本主義を説くエリートたちの道徳観に疑問がある。欲望を満たすためであれば何をやっても構わないという姿勢が蔓延している。その陰では虐げられるものが増加し、難民となって世界をさ迷っている。EUは今まさにこの問題に直面している。右傾化する政治はこの問題の解決には逆効果である。

2017年5月13日 (土)

手足が頭に成り代わる。

  手足が自分を頭だと勘違いして動き出すと頭が困る。引きずられると頭が無能化されたり混乱したりする。頭に変わって頭のために手足が動くということはよくあることである。これは昔流にいうと忠勤型というのだろうが、決して良いことではない。この道はまかり間違うと下剋上に道を拓くことになる。
 組織の活動ではこのようら例をよく見る。上がぼんくらだったり、何もしなかったり、自分の地位を貪り食っているわがまま者だったりするとこのようになることが多い。そうでないときは手足に野心がる。頭を眠らせてしまうことで自分が取って代わるのである。
 このようなことは太古の昔から人間の社会では何の不思議もなしに起きている。歴史はいわばその繰り返しである。そのたびに頭が挿げ替えられている。手足が自分の意思で頭に成り代わったのが革命であろう。

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