独立自尊の生き方を綴る
1.「何歳からでも始められる」、これもモノによりけりであることは解かりきっている。体や心が柔軟な幼少の頃から始めないとモノにならないものもある。歌舞伎のような芸能、オリンピックで覇を競う競技などは3、4歳のころから始めているのが実際であろう。
2.「老いたら老いたで、何ができるかを考える」(58頁)、もっとも、添え書きにあるように、「長生きするほどに、この世の中と隔たるけれど」は、浦島太郎の心境でしょう。
3.「頼らずに、自分の目で見る」(59頁)は、当然ですが、人に頼ろうとするのも老人の癖かもしれない。尤もそれでは何も独自なものは生まれない。
4.「自分の目で見れば、新しい発見、新しい喜びがある」(60頁)、全くその通りですね。これが老人の楽しみでもありますね。そのためには、「いつでも面白がる」(63頁)、「何かに夢中になる」(67頁)、「夢中になれるものが見つかれば、人は生きていて救われる」(70頁)、そのためには、何事につけても問題意識を常に持っていることです。それも人を非難したり批判したりするのではなくて、新しいものを発見したり発明したりする好奇心が必要ですね。
5「誰もやらない時にやったことが大事」(76頁)。学術にしても芸術にしても同じですね。惣藏や発見、発明に繋がりますからね。独創的な人の仕事に感心したり感嘆するのを躊躇する人がいますね。そういう人は、「先例研究を調べられましたか?」と、先例の有無を糾します。身の前の独創に素直でないのです。そういう人に限って何もできない人が多いです、若者の出鼻をくじくことで自分を偉い人だと見せかけるのです。この国ではこのようにして人材を腐らせている人が派閥のような集団をなしてその学界や業界を閉鎖してきましたs。今でもそうであっては、若者の海外逃避を促進します。彼らは「日本村」にとどまっていることに嫌気が射していますし、自分の緩効性に挑戦したいと思っていますから。お若い頃の、篠田桃紅氏もそうではなかったのでしょうか。
6「真実は伝えられない」(84頁)。この言葉を乗せた2頁の文章は、額に入れて壁にかけておきたいくらい感銘した。この通りであると日頃のもどかしさを思い出している。「真実は皮膜の間にある」これは近松門左衛門の有名な言葉だと紹介されている。「真実は想像の中にある」(85頁)は言いえて妙である。
7「真実は見えたり聞こえたりするものではなく、感じる心にある」(86頁)。「察することで、真実に近づける」と添え書きされている。神・佛もそのようなものであると思う。神仏は、見えたり、聞こえたりする自然の風物になかに宿っているの信じられている。亡者の魂は草葉の陰にあると言い習わされてい。これも感じるしかない。
8「知識に加えて、感覚も磨けば、物事の真価に近づく」(117頁)。「虫が知らせる、虫が好かない、を大切にする」と添え書きされている。日本人らしい感覚だと思う。虫の音に心を奪われるときもある。
9「人との競争で生き抜くのではなく、人を愛するから生きる」(131頁)。「地球上から戦争と飢餓がなくなることを願う」と添え害されている。ほんとうにそうあってほしいと願う人が沢山いるだろう。だのに、人間はその逆を生きている。競争にうつつを抜かし人を死に追いやってでも自分幸福でありたいと願っている。核兵器競争がますます熾烈化しているのはどうしてだろうか。このままでは人類は確実に自滅する
10「運命の前では、いかなる人も無力。抱かr、いつも謙虚でいる」(151頁)、「生かしていただいている」(152頁)。戦時中の疎開生活の話は、同時代の体験者である私にも身近なこととしてよみがえってきます。「私がこうして長生きしていられるのは、時宜に適って、救ってくれた人に巡り合えたからです」(54頁)は、この人のいのちは、自信のある生き方と人の支えの合作であることを物語っています。
11、この書では、父母に対する感謝の言葉が綴られている。「全人類が価値を認めて愛するもの」(160頁)はこの人にとって「母」であった。「未来永劫、全人類にとってありがたい母という存在」(160頁)という言葉が記されている。でも、この方は生涯、独身をつら抜いて芸術の道に生きられたのである。
12、最後に、「唯我独尊に生きる」(167頁)と、きびしい言葉でこの書は締めくくられている。