2017年9月22日 (金)

命の選択

 命よりも大事なものはない。人間はそれを信じて生きることができれば幸福であるが、それは自然な生き方にのみ認められるもので、社会が介在するとそうではなくなる。例えば、戦時中には、忠義のために死ぬという覚悟が求められていた。そのむかしの武士の覚悟がその源流であったと思うが、社会が人の命を左右する範例である。
 自然の動物としての人間が社会の生き物になると社会死ともいうべきものが規範になる。人間は自分に命と社会との間でのっぴきならない選択を迫られるのである。社会など捨ててしまえば自然の命を全うできる。その先にあるのが、安楽死とか尊厳死の選択である。自分の命は自分で決着をつけるという選択である。

2017年9月15日 (金)

敬老の日に想う

 敬老の日が18日。敬老と言いたくない程に老人は増えたのではないか。皆元気でまだまだ働けるのだから本当に敬老するのであれば働く機会を斡旋するくらいのことを行事にしてはいかがかと思う。年金の支給開始年齢を75歳にしようかとその筋が目論んでいるのであるから75歳までは老人と言わないほうがいい。今でも75歳は後期高齢者に該当する年齢であるが福祉カットで現役並みの医療費3割負担を要求される所得水準が引き下げられた。こんなことしていて何が敬老なのか。老人の貧困化が加速されている。
  高年齢化する時代にこれでは活力ある国は作れない。老人の元気をもっと増やして医療費負担を減少させるような政策誘導を策定してもらいたい。それには所得格差の是正に取り組んでもらわないといけない。これからの国の政策は「乏しきを分かつ」方向に設定してもらいたい。

2017年9月12日 (火)

官庁会計と企業会計の理念的な比較。

 

 まず、公と私はどんな関係にあるのか、その点から観ると、この国では、公という言葉は、公儀、公方など権力者を指して使われてきた経緯がある。公はおおやけのことで私事に優先するという理解が歴史的に積み上げられている。公経済は私経済に優先するという通念が計さえされていて、その具体的な形として公経営と私経営が区別される。そのもとで公会計と企業会計の違いが生まれている。

一 国家権力と自由平等

公会計の典型的なものは政府・地方自治体の会計である。国家権力とそれを分与された地方自治体が政治・行政権力を行使する。その形が行財政である。その実態を写像するのが会計である。会計は価値計数による情報化行為である。公会計の場合、行財政権力を反映する予算とその執行が記録・計算・報告の体系によって情報化される。

企業会計の場合、市場関係における自由平等が基本である。それを端的に現わしているのが独占禁止である。法の下の平等を前提として競争するのが企業である。公会計では権力構造を反映する予算がすべてであるが、企業会計では市場競争の結果を反映する実績がすべてである。

 

二 権力の行使と市場競争

企業会計では競争原理が支配する環境での経営行動の記録・計算・報告が経営実態を反映することに眼目が置かれる。これに対して、公会計では権力の行使による業務実績が予算措置に合致しているか否かが問われる。

 

三 行政効果と成果配分

公会計では行政効果をいかに把握するかが問題の焦点となる。これを会計数値で表すことに行政はそれほど熱心ではない。何故ならば予定される効果は予算によってあらかじめ示されているからである。決算は予算の執行を報告するもので、決算から初めて明らかになるものはない。行政効果は国民、市民、住民に還元された税金である。それがいかほどのものであるかは行政の裁量に依っている。これに対し、企業会計では、経営成績は成果配分の原資の獲得という使命を担っている。その成果を裁量するのは市場である。

四 財政収支の顛末と経済効果の把握

企業経営者が握って離さないものはカネである。初めに資本ありきというように企業会計は貸方から始まっている。その見返資金がカネである。このカネが各種各様の形態で貯蔵されている。その運用で利潤を獲得するのが企業経営の資本家的な認識である。そこで、利潤獲得に関する詳細な情報を提供するのが損益計算書である。それは単なる金銭収支の結末であってはならない。保有する資産の価値変動を反映するものでなければならないというのが現代会計の特色である。すなわち、経済効果の把握が企業会計の目的である。

他方、公会計は基本的には、歳入歳出決算であって、予算との比較はあるが、資産・負債の決算期末の価値評価は原則として実施していない。すなわち、財政収支の確認に終始している。

五 キャッシュフロー・ステイトメントによる認識の共有化

公会計の改革を提唱するにあたっては、記録組織としての複式簿記の採用と会計事実の認識基準としての発生主義の採用を求めて来た経緯があると承知している。それが公会計の企業会計化を促すものとして賛否両論が展開されて来た。公会計のサイドでは、当初、発生主義による帳簿決算とは無関係に、貸借対照表を試作する動きがあった。地方自治体でその試みが伝播した時期があった。これは、歳入歳出のフロー会計とは別に、財産のストック会計を付加する試みであった。だがこれは発生主義による決算会計の導入とは無関係なものであった。法会計である財政収支会計は慣習会計である企業会計の発想に馴染むものではなかったのである。その反省の上に立って、両者の会計認識原理の共通性をキャッシュフロー・ステイトメントによる認識の共有化に求めることを提言する。

六 両会計に期待される職能の違いは組織自体の存立原理の違いに基づいている。

公会計では会計が当該組織体の自己制御の手段として使われていない。財政を会計によって律するという発想がない。会計は予算執行の経緯の報告に過ぎない。自己弁明の手段である。これに対して、企業会計は企業経営のアクセルとブレーキの両用の働きを期待されている。

 

静かに想いを巡らす

喧噪な世の中に愛想をつかし、ものみなのあわれを思う日々である。人はいつまで経っても争いを止めない。それが自然淘汰の神の与えられた営みであるかともあるかと思うことで納得はするが哀れである。すべての生き物は自然の力によって生かされ、自然の営みによて淘汰されるが自然の定めであると知ってはいてもなお悲しい。ましてや人が人を殺すことを営みとしてきた歴史を持つ人間の無惨は言いようのない悲哀である。この定めを今も連綿と人は繰り返している。この定めを止揚しない限り戦争はなくならない。万物に生々流転の掟がある。死は生きていることの証しである。生きていることは死の定めである。生死一如は自然の掟であることを季節の移り変わりによって教えられている。生殖と死滅の連鎖が生命の実相である。喜びと悲しみが同じものであることを示唆している。戦争と平和が子の理法で繰り返されているとしても不思議ではない。戦争は皮肉なことを言えば神の裁きであってそれを悪魔(である人間)が執行する。自然災害も同じ道理で起きている。

2017年9月 8日 (金)

急ぎ足の秋到来

秋は急ぎ足でやって来た。雨が先行したのでじめじめむしむしが一週間以上は続いたように覚えている。災害列島となっているこの国では人々は学習によって自然災害に強いはずであるが経験を超える災害が発生しやすくなっている。
 そういう不安の中で人々は防災を心にとめて行動するように勧められているが見えない脅威であるトラフ地震には疑心暗鬼も募っている。不安を掻き立ててもいけないが無視しても誤りである。とにかく厄介なことになっている。
 この厄介を乗り越えてと思っていると、政治の世界でも厄介が倍増している。与党の豊田議員の離党があったばかりで、野党の山尾議員の離党も発生した。共に俊才とうたわれた人たちであるが、倫理をわきまえなかったとかで、人生に失敗した。賢いだけでは人生は渡れない。

2017年9月 3日 (日)

 現在とどう向き合えばいいのだろうか

 

雑草園の最初の文章で、「・・・現在とも付き合わないほうがいい。」と書きました。
現在は信用できないことばかりだという思いがありますね。それに現在の自分が信用できないという思いもありますね。現在にしか生きられないのに現在が厄介だという意味を含んでいたと思います。現在という事象に自分を託すことに納得できないのならば、瞬間に命を発見するしかないという思いがあるのです。命は瞬間に勝負をしている。 それには嘘もごまかしもない。 小人である私にとっては線香花火の火花が生きている姿であると思えるのです。それから出て来るストーリーは別物です。自分を外在化しているだけです。命にはストーリー性がない。燃えている姿が命である。太陽の連続的な爆発と同じではないかと思い出しています。だから、現在と言われる事象のなかには自分はいない。現在と付き合うというのは事象化されてしまった命の燃えカスをかき回しているようなものではないでしょうか。現在はその燃えカスを赤い火にして見せてくれる。まるで火鉢の火のようなのが現在でしょう。過去は燃えカスで黒々としている。未来はまだ燃料としても現れていない。燃えるという現象は常に気化する現象ですからその気化こそが命であると思われてもおかしくない。瞬間とはその気化する姿だと理解してもいいでしょう。このような
とりとめもない話になってもうしわけありませんが、過去、現在、未来をも乗り越えてる存在が命ではないかという思いが生まれても来るのです。

社会体制の選択と三つの特徴について

社会体制の選択と三つの特徴について思うままを書き留めておきたいと思う。すなわち

資本家、経営者、労働者の三要素で企業は成り立っている。政治家、行政官、国民の三要素で国家が成り立っている。家系、家族、個人の三要素で家庭が成立している。それぞれが時代と共に変ぼうしている。 それぞれの三要素はそれぞれの組織を構成するにあたって力関係の暫定的な釣り合いによって安定している。どの要素が支配的地位にあるかによってその特色が異なる。

資本家・政治家・家系が有機的に結合すれば経営者・行政官・家族がそのもとに閉じ込められる。それが保守政治を根幹とする株主のための資本主義を支える家族社会を形成する。これこそ古典的キャピタリズムである。
 
 経営者・行政官・家族が有機的に結合すれば労働者・国民・個人が長期安定志向を受け入れる。それが現存する社会を肯定的に発展させ持続差させようとする官僚化された社会を形成する。これこそ正統派のビューロクラシーである。
 
 労働者・国民・個人が有機的に結合すれば資本家・政治家・家系はネグレクトされる。古典的資本主義の優位性を否定し正統派ビューロクラシーに抵抗する。これこそ真正なデモクラシーである。

 

 

2017年9月 2日 (土)

平和とミサイル

  今朝は秋の風。久しぶりに窓を開けて風を入れる。空気も乾燥している。つかの間の心地よさかもしれないが、暑くて蒸し暑かった夏が去ってほっとしている。これからやる気で働く人の動きが盛んになるだろう。
 日本は平和だから、安心して働ける。そういった外国人がいた。自分たちの国では毎日というより毎秒が心配であると言ったという。平和ほど大切なものはない。日本は敗戦という大変な犠牲を払って平和を手に入れたのである。そのことを忘れて欲しくない。戦後72年経ってその感覚が麻痺しているような発言があったりする。怖いことである。現実に迫っているのはどのような脅威なのか、それを取り除くためにはどうすればいいのか、気が狂ったように発射されている北朝鮮のmissileが北海道の襟裳岬を通過した現実をどのように受け止めるのか、被害がなかったからいいようなものの被害が発生していれば強固な意見が立ち上がっていたであろう。

2017年9月 1日 (金)

2学期が今日始まる

今日は秋の新学期の始まり。朝、散歩に出ると、住宅団地からの児童の列が何列にもなって続々と下って来た。久しぶりに見た光景である。児童が元気であればこの国は明るい。この団地も、私が散歩していた頃、小学3年生であった児童も今は25,6歳になっている。今現在登校している児童は次の世代の両親の子供たちであろう。団地も古くなった。老人の居住が自然に増えている。この団地に戸建住宅を構えた最初の世代が定年に近くなっているのではないか。生まれ育った子供たちが成人し世代交代の時期を迎えている。児童たちの登校する姿を見ながら時の移り変わりを感じた。 

2017年8月26日 (土)

核寡占体制のほころびと日本人

  また、北朝鮮がミサイルを撃った。先軍思想を実践しているというが、核保有国としての待遇を要求している。核拡散防止という核保有国(国連常任理事国)の核寡占体制への挑戦である。ほかにも、パキスタン、印度、イスラエル、イランがこの体制を破っているが、あえて保有国としての待遇を求めていない。
 日本、韓国はアメリカの核で守られているから核保有をあえて求めていないし、求めても実現する可能性はない。軍事バランスが現状で膠着したままか破られるかは核保有国の出方次第である。これまではアメリカ次第のようであったが、最近は中・露を含めてその様ではないかもしれないという危惧がある。
 これからこの国はどう生きていくというのか。日本の将来を決める政治はどうなるのだろうか。国民が一番心配しているのはそれだと思う。核の傘が不要な日本にいつどのようにしてなるのか。

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