2018年6月19日 (火)

品ぞろえのポリシーが違うようだ

 ある本を電話である本屋に注文すると、電話を掛けたままで長い時間またせて、やっと出てくると、在庫がない、注文ですと一週間から十日は掛かりますという。注文しかけたがふと思い直して別の本屋に聞いてみると言って電話を終わった。別の本屋は最初女性が電話に出て注文を受けたが、在庫を調べますと言って、電話番号を尋ねたので知らせて電話を切る。待つ間もなしに今度は男性が在庫が一冊有りますと電話してきた。即座に注文する。一昨日の新聞朝刊に広告が出ていた本である。少し前に別の本を注文した時も最初の本屋には在庫がなかって取り寄せになったが、同じ本が後の本屋では在庫があった。 
 新刊書や有名既刊書の扱いがこの二つの本屋ではすっかり変わっていた。いつも取り寄せになる本屋ならば住宅地にある小さな本屋では当たり前だが、ともに神戸三宮の繁華街にあってこの違いである。戦前からの本屋でその名を知らないものはない本屋が昔ながらの商売をしているようだったが、後の本屋は戦後生まれの本屋で同じ繁華街に三店舗も構えている野心満々のような本屋である。働く人の心構えも違っているように見えた。そんなことから透いて見えたのは老舗の老衰化である。老舗と新進気鋭とではトップの経営姿勢がすっかり違うのであろう。人の働かせ方も違うようである。

2018年6月13日 (水)

「終わった人」はプチブル趣味の映画だった。

 映画「終わった人」は、恵まれた定年退職者のその後の生きざまを、贅沢に描いたもので、普通のサラリーマンではとても経験できないハイレベルの暮らしを当たり前のように描いている。東大法学部卒業、有名銀行の専務(?)で定年、こんな経歴の人はそうざらにはいないのだから世間の定年退職者の定年後の生き方の参考にはとてもならない。嫁さんは美容院を1000万円出して始めるというのだから、そして社長になった本人の会社の借金をまるまるかぶってしまっても平気な暮らしができているのだから浮世離れしていた。盛岡の高校が母校で体育部の応援に出かけて騒ぐ余裕もあるのだからめでたいことであった。ちょっとした浮気話の女が自分の長男の浮気相手だったりするというエピソードまで添えたあった。夫婦の別れ話もすんなり収まって愛を再確認する最後のシーンは桜満開であった。昔の言葉を使えば、プチブルのお遊びである。

2018年5月29日 (火)

映画「家族」のにぎやかさに圧倒された老人の感想

 映画「家族」を観た。三作目である。これまでは自分に身近な感覚であったが、今回は、なぜか、自分とは無縁のにぎやかさが、かえって寂しさを誘った。最近は老老介護の夫婦たり住まいである。子供家族は近くに家を構えていても滅多なことではやってこない。盆正月に来るというしきたりを踏襲しているだけである。近寄ってはならないもののように避けているのか、生活に忙しくて来れないのか、どちらも潜在理由だろうとは思われるが寂しいものである。
 このような現状の老人が増えている。その現状からすると映画の家族は三世帯が集まってにぎやかである。これは一昔前のことであったように思う。映画が遅れたのか世間が進みすぎたのか、そのどちらでもあるだろう。今焦点を当てるべきは老人だけの住まいが増えていることである。老夫婦二人がそろっていればまだましのようで、配偶者のどちらかが欠けて一人住まいというのが増えている。こういう場合に、独居老人の孤独死が発生しやすい。これからは、こうした独居家族にも焦点が当てられてしかるべきだろう。
 今の日本の家庭はにぎやかではない。三世代それぞれに孤立化している。家族主義が消滅して個人主義がはびこっている社会だからこれからも独居家族が増えるであろう。

2018年5月20日 (日)

不安定な季節にこの国の歴史が重なる

 このところ気候は不安定で一日の内でも温度差が大きいし、いつ雨が降るかわからないという急変もたびたびであった。これについてゆくのにはかなり疲れる。湿度も高い。むしむしするので不愉快である。体調の維持に気を遣わねばならない。歳をとるとそれがつらい。
 それでも戦争がないのでありがたい。戦時中は食うものもなくなってひもじい思いをしながら空襲を心配して日々を過ごしてきた。生きている気がしないような状態だったが、それでも必死になって生きようとしていたことは確かである。
 今は、物資も豊富で何でも買える経済状態である。国民全体の生活水準が戦時中に比べれば格段に高い。よくぞここまで復興できたものだと思うのは戦時を知っている高齢者だけかもしれない。今の生活水準が当たり前だと思っている若者には昔の話は通じない。
 お隣の中国がそっくりそのまま当てはまる。今の金満中国人には昔のことは嘘のようであると思う。世界の支配者に躍り出た中国のなかで育ってきたのだから随分と自信があるように見える。日本などは見下されている。庶民の生活感情がその国の国民性をあらわしている。
 日本の「失われた20年」はそっくりそのまま躍進する中国にすり替わっていた。アジアのリーダーが完全に交代したのである。日本に学びに来た中国人が1990年代まではいたが、その後は次第に姿が見えなくなった。2000年代に入ると中国人が日本人を見下すことになった。
 世界のなかでの日本の発言県も小さくなっている。国連の常任理事国である中国は政治でも日本を凌いでいる。日本はアメリカの同盟国である子pとによって存在感を示しているような状態である。これからの世代はこの状況の中でどれだけ頭角をあらわせるのか期待と不安が交差している。

2018年5月15日 (火)

キャシュレスへの転換を早急に実現してもらいたい

 買いものしてレジで支払う時、イライラすることが多い。財布中をのぞいてコインを一枚一枚つまみだしている人が自分の前にいるとたまらない。レジの係も我慢して待っている様子がよくわかる。
 キャッシュレス社会はレジから始まっているようだが、その狙いがレジ係を減らして人件費をを抑えるためだとよく聞く。これはダメだ。自分たち店の経費節約を狙っているが客の不便を解消する発想が全くないのでから時代遅れであるし、キャッシュレス社会をほんきでつくろうとしていない時代遅れの感覚がおぞましい。
 最近、病院では銀行のdebit card が使えるようになった。だが薬局ではまだ現金払いである。credit card は嫌だという店も debit card であれば即金払いである。自分の店の口座に入金される。
 現金を持ち歩かなくてもすむ社会に早く転換したいと世界に遅れる。家計簿の管理もdebit ならば瞬時にできる。世界がその方向に動いている。スマホで決済の時代でもある。政府も政治家も、地方自治体も、キャッシュレス社会への転換を早急にスピードをもって進めてもらいたいと思う。
 世界の人間の生き方が日常生活から変わってきた。銀行、会社、商店が一体になってこの変化を加速するように行動してもらいたい。

大人と子供の境界が動く

 仕事に就く、働く、社会を知る。少年から青年への転換期は人生の中で最も貴重な時期である。心が育つのはこのころである。親の子から社会人に脱皮する。この経験を素直にできる社会が用意されていないと国民は育たない。それを用意するのが大人の役割である。
 ところがこの頃、いつまであっても大人がガキ(餓鬼)である。成人式は二十歳になった時であるが、とてもとても大人の仲間になれる状態ではない。餓鬼のまま大人ぶっている。大人とは、人に尽くすことのできる存在なのであるが、まだまだ, 自分に尽くしてもらいたい心情と行動から抜け出ていないものが多い。
 このままでは成人式は三十歳になった時がふさわしいのではないかと思う。十五歳で元服した昔と比べると人間の成長の鈍化がはなはだしい。明治の初めころから昭和にかけて、結婚適齢期は十八歳ぐらいから二十歳過ぎまでであったようであるが、今は三十五才くらいがピークのようである。この時期を逃すとあとがないみたいな雰囲気がある。二十歳代に産み終えると聞いていたのだが、今は三十歳代が最終みたいな状況である。
 人間の成長に時間がかかるようになったのであろうか。昭和の初期頃では小学校を出ると働きに出る子どもがたくさんいた。いうところの丁稚奉公である。中等学校が義務教育になったのは敗戦後だった。これで三年は確実に社会的成長が鈍化した。今現在はほとんどの高卒生が大学に入るので二十歳過ぎまで”子供”である。

2018年5月11日 (金)

取り残されている日本

 柳瀬氏の国会答弁について、今6chで解説が進行中。とにかく官僚の答弁とはこのようなものという見本のような展開であったことは私でも、「記憶」しています。
 どうにもこうにも、これだけ巧みに言い逃れをするのにはあきれてものが言えないというのが、大方の印象だったのではないだろうか。でも、結局はぼろが出ます。人間の行動として辻褄が合っていないのです。発言の時の表情に人間らしい素直な感情が出ていない。目がものをいうという言葉がありますがその通り目には本心が隠れている様子がうかがえました。
 「また、〇〇大か」、このところ疑惑を国会で追及されたエリ-ト官僚はことごとく〇〇大卒でした。この人たちが官僚のトップの座を占めて好き勝手をやっていたことがばれたのです。幼稚園からの受験競争の上りがこのようでは情けないですね。何か人間にとって大切なものを棄てて育ったのでしょう。でもこういう官僚の上を行くような官邸の動きもなんとなく不気味ですね。

 さわやかと言っていいかどうか疑問ですが、マレーシアでは92歳の偉人が総理に返り咲きましたね。政界の腐敗に国民がNOを突き付けたようです。日本にもそういう偉人はいらっしゃるのでしょうか。国家よりも国民が大事だっていうような雰囲気がどこかにあるようですね。

 拉致解決が独力でできないっていうのは歯がゆいですね。国家の威信も国民の完全も踏みにじられて何十年経っているのですから、辛抱も限界じゃないですかね。官僚の出世競争、政治家の権力奪取もほどほどにして、国民の安心・安全を守ってほしいものですね。

2018年5月 8日 (火)

人間の存在感の根底にあるもの

 人間を他の動物から区別するメルクマールは人間性であるという。人間は、地獄、餓鬼、畜生に勝り、絶えず闘争を好み地下や海底に住む阿修羅よりも上で天よりも劣るという。このように「広辞苑」では解説しているが解かったようでわからない。つまり想像の域にあるからであろう。実感がするのはどういうときだろう。動物よりはうえで神仏よりは下といわれればなんだか確かにわかったきもちになる。動物は日常経験の中で確認できている。神仏は確認できないが生活習慣の中に取り込まれている。死後、人間は神にも佛にもなる。それは想念の世界でのことなのだが、人間は、自分たちの仲間の中から神や仏を選ぶ。だが、神も仏も本来は人間を超越したものであるという確信を抱いている。神性や仏性は人間性よりも優れたものであるという信念がある。人間の生命観はこうした相対性を前提としている。そのことによって、ちょうどよい具合な存在感を自ら確認するのである。神の社である大自然、仏が慈しむ社会、その中に人間が万物の霊長類として生存しているという理解によって人間は自らの生命活動を営むのである。
 
 人間は神にも佛にもなるという信念と、神や佛は人間を超越した存在であるという確信がぶつかり合いながら神仏信仰の世界が築かれている。どちらも正しいのであろう。だが、人格神には超越神のような絶対性は見られない。佛についても同様のことがいえるであろうか。釈迦牟尼仏は人間釈迦の死後の姿であるといわれている。議論は大変にむつかしい。それとは別に、釈迦の教えた仏教はひり一人が自分を律する教えであったといわれている。この教えを小乗仏教と言い、社会の法理を説いたものが大乗仏教と言われているようである。インドの仏教は前者であり、後者は中国で広められ日本にもたらされたもので儒教の影響を受けているといわれる。いずれにも真理があると思うが、個人の生命観に直結したインドの釈迦仏教が、「個の時代」と言われる今現在の世相に照らして再び注目するに値するという論説が最近の読売新聞紙上に掲載されていた。
 
 確かにそういう見方は当たっていると思う。国家とか社会とかいう前に、個人の価値観とその行動が民主主義とその武器である「選挙」を通して躍り出てきた。偏狭な個人主義が世界を脅かしている。社会を一定の方向に導こうとする大乗仏教では解決できない問題に直面している。そう思いたくなるほどに世の中は乱れているのである。日本の識者をして「応仁の乱」であると言わしめるほどである。個人の存在観に照らしてこうした問題を考察するのにも理があるように思われる。

 個人は何のために存在するのか。社会や世界は個人にとってどんな意味を持っているのか。個人主義と社会主義のどちらが本当に人間の幸福につながるのか。個人と家族を律する原理はどこにあるのか。個と集団の関係性についてどちらを主概念とするかによってこれらに対する答えは正反対になるであろう。そのいずれが正しいのかは判ずる者の哲学に依存することとなる。それに時代の潮流があることも否めない。

 

 

宇宙観と人間

 生命の循環がこの世とあの世にまたがる超物質的世界の現象であると理解するか、この世だけで完結する物質的世界の現象であると理解するかは本人次第である。その背後に本人の抱く宇宙観がある。そう思うと宇宙観が人間観に影響している姿が鮮明になる。

宗教的宇宙観は超物質世界に包み込まれるような形で物質世界が成り立っているという包摂的な宇宙観を抱いていることが般若心経からも読み取れる。般若心経で述べられているものは釈尊の宇宙観だと思えばそれなりに理解できるかもしれない。
 
 だが、現在は科学的宇宙観が宇宙探索の科学技術の進歩とともに形成されつつある段階である。宗教的宇宙観を示す曼荼羅の解読と現在の科学的宇宙観との間に接点があるのか、ないのか、あるとすればどのような接点が発見されるのか、興味が尽きない。自然科学的宇宙は物質的なもので宗教的宇宙は超物質的なものという違いを認めることで宇宙観の違いがおのずから生まれるということでいいのか、両者は同一の対象であると認めるべきか、宇宙観についての議論はそのことから始めるべきではないだろうか。超物資世界を認めるべきか否かにかかわっていることだと思う

天・地・人は、物質的な宇宙と地球と人間の関係性に注目する自然科学的な研究対象として認識され科学的探究心を掻き立てる。神・佛・人の関係性についての思念は超物質的な宗教的宇宙観に導く。そのように割り切って考えれば両者を混同することはないであろう。曼荼羅に描かれた宇宙とロケットを飛ばして探索している宇宙とは全く別ものであるということでよろしいか。多分そのほうが解かりやすいであろうし、何の疑問もなしに万人が納得できるであろう。だが、それだと、神も仏もいなくなる。それでは、神仏崇拝を根拠に成り立っている人間社会の歴史も現実も否定することになるが、それでよろしいだろうか。神仏の存在を否定できるのであれば現在もなお人間を悩ましている宗教がらみの戦争はなくなるといっていいだろう。「エルサレム」はその存在意義を失う。科学と宗教がお互いにその存在意義を認め合うことで人間は存在できるのではないか。少なくとも現段階の人類はそのような生き方で存続している。この国から、伊勢神宮や出雲大社がなくなることなど誰も考えられないだろうし、除夜の鐘や初詣を肌身に親しく感じている人もいるだろう。お盆の墓参りも欠かせない行事になっている。京都東山五山の大文字の送り火も夏の風物詩である。宗教が社会風景になっている社会で育った人間は宗教的宇宙観を否定はできない心情を持っているだろう。だが一方で科学による宇宙の解明に期待している。このようにややこしいのが人間である。村上和雄氏のつぎの言葉を掲げて置きたい。「素粒子みたいな微小の世界から、宇宙の生成と発展に至るまで、人知を超える『神の働き』があったとしか思えないというのが、私の考えです。」(前掲書四〇、四一頁)

 

 

 

2018年5月 7日 (月)

生命の循環

あの世とこの世の二つの世界をめぐる生命の循環に働く因果の法則とは何か。これが六道として説かれている。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という輪廻がそれである。

この世での行いが悪いとあの世では閻魔の裁きを受けてこのような輪廻に遭遇するという諭しであるという。子供だましだと思う人がいても不思議ではない。その現実を見ることはできないので信じるしかないが、容易に信じたくないのが人情である。その存在を証明するものはないのだからというのが普通の人の普通の解釈ではないか。この解釈がよって立っているのはこの世である。だが輪廻が起きているのはあの世である。このように割り切ると、言われていることの意味が理解できるのではないか。

 超物質的な精神界であるあの世と物質的な生存の場であるこの世とを人間が往還することをこの世では、誕生と死亡というが、あの世から見れば、降誕と帰天である。そこで問題意識として私が注目するのは、身体髪膚を与えられた人間の一生は肉体的次元で一切の生命現象が完結する。息を引き取ったものはもはや人間ではない。人間社会はこれを遺体として処理する。物質的にはそれで一切が完結する。だがその裏側では、霊魂が肉体に宿ったという降誕説が認められている。人間の一生はこの霊性の働きに導かれるという。肉体が滅びたときにこの霊性は天に帰るという。肉体を操る精神と精神を養う肉体とが一体化したものが人間である。そう思えば、どちらのがわに立って考えているかで話の運び方は自ずと異なってくることも理解されるであろう。通常、人間は肉体の側に立っているのでこの世の考え方がベースになって生きている。だがこの世を去ったものに対しては霊魂との出会い以外に会う機会もない。この瞬間から肉体のある人間は肉体のない人間を「佛」として迎える。こうして生き身としての人間が霊体としての人間になって生命の循環を完結する。

 このような解釈は、あの世とこの世を両立させている通常の生命現象の認識をもとにして成り立つのである。しかも霊界を優先的な世界としてそのもとに現世が肉体的な世界として存立しているものとみている。精神界が規範の世界でありそのもとに肉体世界が従属しているという認識を採用している。神仏の基に人間が生存しているという宗教的規範論があの世とこの世の両界をつないでいる。精神性優位の人間像が築かれ肉体は卑しいものと理解される。生命の循環を司るのは霊性であって超物質的な神仏に帰依ることが人間の生存原理とされる。
 
 これに激しく対立するのがこの世の物質的世界を基本として生物の生存が成り立っているというもので霊性的なあの世の存在を認めない無神論である。精神は物質から派生する生命の働きであるという。個体間の生命の継続性は遺伝子の働きによるものであるという説が一般的である。生命の循環は肉体的現象に過ぎないとするものである。

参考:矢作直樹・村上和雄共著「神(サムシング・グレート)と見えない世界」祥伝社新書 二〇一三年初版

 

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